▼『絹の魅力』金沢昭三郎,川村一男

絹の魅力: いま、シルクを知りたいあなたへ

 なめらかな肌ざわりと光沢,衣ずれの音……「絹」という言葉には,歴史を超えた豪奢な響き,そして燦然たる輝きがある――.

 わらかな張りのなかにコシがあり,放つ光沢は息をのむほど美しい.しゅるしゅると響く上品な衣擦れの音は,阿波,美濃,常陸,紀伊,西陣,それぞれの反物に宿る豪奢な風土を,今なお語っている.「天然繊維の貴婦人」と称される絹は,綿の1.5倍という吸湿力を誇り,夏は涼を,冬は温もりをもたらす.女性の靴下,男性の肌着に最上の着心地を与えてくれるのは,繊維の主成分が人間と同じタンパク質であるがゆえに,肌と感性が本能的に響き合うからであろう.

 弱点を挙げるとすれば,日光への脆さと,養蚕に要する手間とコストか.しかしそれもまた,この繊維の持つ稀少な品格の裏面と見れば納得できる.本書は絹の専門家2人が,その機能性と審美性をわかりやすく,かつ豊富な雑学とともに解き明かした好著である.絹の衣擦れが奏でる音はファ・ド・ファ・ラという協和音,疥癬や虱を防ぐ実用的な効能を持ち,スパンシルクの肌着がエーリヒ・マリア・レマルク(Erich Maria Remarque)『西部戦線異状なし』に描かれた塹壕戦を陸軍兵士の皮膚の側から支えた――数々の挿話は,絹という素材の奥行きをあらためて実感させてくれる.

 かつて日本は,第二次世界大戦直前に年産約6億4000万平方ヤードを誇り,絹は殖産興業の象徴であった.しかしナイロンとレーヨンの台頭以来,その地位は急激に失墜する.今や国産繭を使った生糸が国内流通品に占める割合は0.15%前後にすぎず,大半を中国やブラジルからの輸入に依存する.養蚕農家の高齢化と安価な海外製品との競合が追い打ちをかけ,その経営は極めて厳しい.かつて近代日本の礎を支えた絹の全盛期が再来するとは,もはや誰も期待しまい.だが,国内でかろうじて命脈を保つ現状に甘んじるだけでは,あまりにも惜しい.

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原題: 絹の魅力―いま、シルクを知りたいあなたへ

著者: 金沢昭三郎,川村一男

ISBN: 9784336022769

© 1987 国書刊行会

■「五条霊戦記 GOJOE」石井岳龍

五条霊戦記//GOJOE [DVD]

 平安末期.平家が支配する闇の時代,源義経は山にこもり日々武術や妖術の鍛錬に明け暮れていた.五条大橋で平家武者を次々と切り捨てるその姿は鬼と恐れられ,近寄るものはほとんどいない….

 義経(遮那王)と武蔵坊弁慶の伝説――五条大橋での出会い――を,ニヒリズムとサイバーパンク的感性が交錯しながらの再鋳造である.浅野忠信演じる遮那王には,悲劇的貴公子像は跡形もなく,そこに立つのは他者の命を塵芥とも思わぬ人外の存在.デコンストラクション(脱構築)としての英雄像――「義経」という固有名詞に蓄積された感傷――を,暴力によって一気に無効化する.対する隆大介演じる弁慶は,かつての殺生を悔いて仏道を歩もうとする求道者として描かれる.

 絶対的な「悪」である遮那王と対峙するため,弁慶は再び修羅の道へと引き戻される.鎌倉期の京都が舞台となるが,撮影地は敢えて時代考証を無視した荒涼たる原野と廃墟が選ばれた.主たるロケーション,えさし藤原の郷(岩手県奥州市)の風景は,末法思想を視覚化,緑豊かな古都・京都のイメージとは意図的に切り離されている.小野川浩幸による音響は,金属の摩擦音,風の咆哮,心臓の鼓動を模したような重低音など映像と精密に同期している.

 立ち回り(殺陣)にあるべき様式美的な「間」はほぼなく,肉体を削り合う暴力の衝突がハイスピードカメラと細分化されたカット割によって,光と影の抽象的運動へと昇華される.本作の企画当初のタイトルは「鋼(はがね)」だった.鉄と人間の関わりを主軸に据えたより一層ハードな物語が構想されていたが,原型の痕跡は,刀を打つ際の凄まじい火花と映像全体に漂う金属質の質感に色濃く刻まれている.公開時,本作は興行的に苦戦を強いられ,批評的評価も真っ二つに割れた.物語の完結性よりも体験の過激性,また歴史の再現性よりも神話の解体を,あらゆる面で優先したからである.

 従来の時代劇ファンが求める情感的カタルシスは,本作においてことごとく拒絶されるだろう.しかし2020年代の視座から見返すとき,本作の先見性は鮮明だ.CGに依存しない生々しい特殊造形,デジタル処理による極端な色彩補正(カラーグレーディングの先駆け),固定的な前提を疑い,矛盾を暴き出して英雄の怪物性を暴くデコンストラクション的手法――これらは現在のダーク・ファンタジー映画の標準的文法となっている.

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原題: 五条霊戦記 GOJOE

監督: 石井岳龍

137分/日本/2000年

© 2000 サンセントシネマワークス/WOWOW

▼「弥兵衛奮迅」司馬遼太郎

新選組血風録 新装版 (角川文庫)

 薩摩出身の富山弥兵衛は「二才言葉」を盾に新選組を渡り歩き,粛清を逃れた.言語という知的仮面を操った男は,北越の戦場で剣一本となって散る.組織を超えた「個」の孤独と純粋――.

 末という変革期において「個」がいかに組織の論理に抗い,あるいはそれを擬態として利用したかを描き出す小編.富山弥兵衛の生涯を通じ,言語の壁という主題を掘り下げている.本作の白眉は,弥兵衛が操る言葉の戦略的使い分けにある.他藩の者には暗号に等しい薩摩の「二才言葉」は,新選組という結束を誇る組織において,内実を悟らせない防壁=ステルスとして働いた.

 土方歳三が目撃した,奥州の隊士にも通じる言葉で談笑する姿は,弥兵衛が知性と密偵としての自覚を兼ね備えた存在であることを露出する.組織の支配者である土方は,言語を意図的に制御する男の粛清を決断した.新選組による粛清をすり抜ける場面は近藤・土方の標榜する「誠」という集団的論理から,弥兵衛という「個」の完全離脱である.伊東甲子太郎の派閥を隠れ蓑としつつも,いかなる組織にも安住しない「通過する男」であった.

 流浪の果て,戦場で散る際の弥兵衛が見せる奮迅は,凄惨なまでの純粋さを帯びる.新選組という死の体臭に満ちた組織を通り抜けた者だけが宿す,生への執着を手放した身軽さ,あるいは死に場所を求める静かな狂気.言語という仮面を巧みに使いこなし,組織を渡り歩いた男が,最後には一切の言葉を捨て,ただ一振りの剣として散る.司馬遼太郎は論理と情熱,仮面と素顔という人間存在の多層的な真実を,一個の生の中に凝縮してみせたのである.

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原題: 弥兵衛奮迅

著者: 司馬遼太郎

ISBN: 4041290074

© 2003 KADOKAWA

▼「アイルランドに蛇はいない」フレデリック・フォーサイス

帝王 (角川文庫 緑 537-8)

 アイルランドには蛇がいないという「神話」を逆手に取り,人種差別への復讐に猛毒蛇を用いる知的な倒錯を描く.緻密なリアリズムで構築された完璧な計画が,皮肉にも無知という盲点によって破綻する――.

 レデリック・フォーサイス(Frederick Forsyth)の名声は,『ジャッカルの日』に代表される長編スパイ小説の緻密なリアリズムによって築かれた.しかし,技巧が純度の高い結晶となるのは,むしろ短編という密閉された空間においてである.5世紀,聖パトリック(Saint Patrick)が島中の蛇を海へ追い払ったという伝説は,地質学的には氷河期の地形的孤立にすぎない事象だが,科学的事実と宗教的神話が混然一体となり,文化的公理(アクシオム)となった.フォーサイスが着目したのは,この公理が生み出す認知の死角である.

 人は存在し得ないものを視界に入れても,認識することを拒む.心理的盲点が,本作における真の凶器.物理的な毒牙よりも,より確実に,より残酷に人を殺す――人間の認識は,脆弱な前提の上に成り立っている.物語の表層は,古典的な復讐劇の形をとる.インド人留学生ラムは,建設現場の職長キャメロンから執拗な人種差別と虐待を受ける.身体的暴力と社会的地位を背景にした職長の優位は,一見揺るぎない.しかしフォーサイスは,この構図を「知識の非対称」によって鮮やかに反転させる.

 ヒンドゥー教の女神の教え「蛇はアイルランドにはいないが,アイルランド人の中に蛇がいる」に従い,ラムが選んだノコギリヘビ――インドに生息する極めて危険な毒蛇――これほどの凶器であっても,アイルランドにおいては存在しないため,発見されても識別されず,目撃されても否定される.生態描写に注がれる詳細さは,ジャーナリスト出身のフォーサイスらしいテクニカル・リアリズムの極致であり,読者に回避不能な現実味を抱かせる.ラムの誤算は,論理の欠陥によるものではなかった.計算は,制御可能な変数の「範囲内」では完璧だった.

 物語の掉尾を飾る脅威が明かすのは,人間の知性がいかに精緻であっても,他者の無知や自然の偶発性までは支配できないという限界である.聖パトリックが追い払ったはずの蛇が,信仰という形で人々の認識を縛り続けているように,人間が排除したと信じた混沌は,常にシステムの裂け目から侵入する.1970年代の英国社会,人種差別が日常の風景であった時代背景を思えば,この悲劇はより重層的な意味を帯びるだろう.職長の暴力が差別の発露であるならば,ラムの復讐とその誤算もまた,個人では抗いきれないアイロニーの渦中にある.

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Title: THERE ARE NO SNAKES IN IRELAND

Author: Frederick Forsyth

ISBN: 4042537081

© 1984 KADOKAWA

▼『自壊する帝国』佐藤優

自壊する帝国(新潮文庫)

 ソ連邦末期,世界最大の版図を誇った巨大帝国は,空虚な迷宮と化していた.そしてゴルバチョフの「改革」は急速に国家を「自壊」へと導いていた.ソ連邦消滅という歴史のおおきな渦に身を投じた若き外交官は,そこで何を目撃したのか.大宅賞,新潮ドキュメント賞受賞の衝撃作に,一転大復活を遂げつつある新ロシアの真意と野望を炙り出す大部の新論考を加えた決定版――.

 史の修辞として「崩壊」という語は,しばしば外圧や制度的失敗の隠喩に堕する.しかし,本書の「自壊」は,能動と受動の中間を担っている.著者がモスクワの日本大使館に着任したのは1987年8月,離任は1995年3月である.ソビエト社会主義共和国連邦が消滅したのは1991年12月25日.大統領ミハイル・ゴルバチョフ(Михаил Сергеевич Горбачёв)の辞任演説が生放送されたその夜,クレムリン上空の赤旗が降ろされ,三色旗(トリコロール)が翻った.西側で資本主義の恩恵を最も深く内面化した国の一つ,日本の外交官がよりによってその場に居合わせたのである.大学時代,チェコのプロテスタント神学者ヨセフ・ルクル・フロマートカ(Josef Lukl Hromádka)――マルクス主義との「対話」を神学的使命と規定した人物――に感応した著者は,チェコ語研修を目的として外務省に入省する.しかし省は,東欧の無神論を研究したかった青年外交官をソ連課に配属し,英国陸軍語学学校でロシア語を修めさせた.

 英国陸軍語学学校は,冷戦期に西側諸国の情報機関と密接な関係を持つ機関であり,ここでロシア語を習得した人材は,言語学的訓練と同時に,英国流のコンテクスト読解の薫陶を受けることになる.神学を志した者が外交の迷宮に組み込まれたことは,結果として本書に政治学の実証性と神学の超越的視野,そして形而上学的問いへの嗜好という複眼的な魅力を与えている.1987年から翌年にかけてのモスクワ国立大学留学時代,「科学的無神論学科」をめぐる観察が最も刺激的な記述である.ソ連では宗教を批判するという名目でキリスト教が正規の学術対象として研究されており,批判対象を精密に知るという制度的要請が,皮肉にも神学研究の隠れ蓑を形成するという弁証法的構造を生んでいた.著者はエストニア,ラトビア,リトアニアのソ連邦離脱運動派の学生と激しく討論するが,学生の半数が信者であったという事実は,イデオロギー的均質性を標榜した体制が,その内部にいかに多孔質な領域を生成していたかを示している.

ソ連は壊れる.時間の問題だ.ただ,この体制が生きながらえれば,ロシア人もラトビア人も苦しむ.だからできるだけ早くソ連を破壊するのだ.…中略…レーニンは革命は帝国主義の鎖の一番弱い輪から起きるといってロシア革命を起こした.ソ連の一番弱い輪を崩す.それは沿バルトだ.ソ連を内部からぶっ壊すのだ

 本書において,最も興味深いのは,ラトビア出身の学生「サーシャ」との邂逅である.筆者によれば,サーシャは事象を既存の概念枠に縛られない,常人離れした知の型を持っていた.スターリン時代の大粛清によって知識階級(インテリゲンチャ)は壊滅的な打撃を受けたが,慧眼の命脈が脆弱ながらも継承されていたことをサーシャという存在に見出すのである.こうした個別の観察を支えるのが,語学研修時代のロンドンで出会った亡命チェコ人書店主から受けた,防諜(カウンター・インテリジェンス)の教えである.公式の表向きと非公式の実態という二重構造を読む訓練なしには,モスクワ大学の逆説も,バルト諸国の独立運動の深層も解読不能であっただろう.インテリジェンスとは,表層と深層の落差を測定する技法であり,神学における「字義」「霊義」の層位的読解と構造的に相似しているのだろうか.

 「自壊」という主題を政治学的に決定づけるのが,ロシア連邦国務長官ゲンナジー・ブルブリス(Геннадий Эдуардович Бурбулис)による示唆である.ブルブリスは,ソ連帝国を維持する以外に選択肢を持ち得なかったゴルバチョフの無能さと,共産党中央委員会の自爆的行動の合成物として,1991年8月のクーデターとその失敗を捉えた.また,官僚や政治家の背後では,公式には禁じられていた構造主義や神学が,反体制知識人のあいだで変形的にネットワーク化されていた点も見逃せない.思想的抵抗の地理的分布と政治的抵抗の拠点が重なっていたことが,ソ連という巨大な構造物の亀裂を生んだ.大国が迎えた歴史的分岐点を内部から観察した記録として,本書は類書に比して際立った知的密度を持つ.民族問題――バルト三国の独立やコーカサス諸民族の動向など――への言及が概要に留まっている点は,単著としての完結性を求める読者には不満かもしれないが,本書は長く,広く読まれるべき著作である.歴史書であるとともに外交回顧録であり,一個の人間の知的自伝としても秀逸である.

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原題: 自壊する帝国

著者: 佐藤優

ISBN: 9784101331720

© 2008 新潮社