■「IT/イット “それ”が見えたら、終わり。」アンディ・ムスキエティ

IT/イット "それ"が見えたら、終わり [Blu-ray]

 一見,平和で静かな田舎町を突如,恐怖が覆い尽くす.相次ぐ児童失踪事件.内気な少年ビルの弟も,ある大雨の日に外出し,通りにおびただしい血痕を残して消息を絶った.悲しみに暮れ,自分を責めるビルの前に,突如“それ"は現れる.“それ"を目撃して以来,恐怖にとり憑かれるビル.しかし,得体の知れない恐怖を抱えることになったのは,彼だけではなかった.不良少年たちにイジメの標的にされている子どもたちも“それ"に遭遇していた….

 ラー映画という外皮をまとったビルドゥングス・ロマン(自己形成譚)である.恐怖は,少年時代に通過すべきイニシエーションにすぎない.語られているのは,心に深い傷を負った者たちが互いの痛みを受け入れ,連帯することによってのみ,不条理に抗いうる比喩であり真理である.物語を貫く27年周期は,現実に奇妙なメタ的符号を伴って立ち現れる.1990年のテレビ版放映から数えてちょうど27年後の劇場公開,怪異"ペニーワイズ"を演じたビル・スカルスガルド(Bill Skarsgård)もまた,当時27歳であった.

 符合は,同一の怪物が世代を超えて出現する主題と気味悪く呼応している.舞台となる町デリーは「忘却」によって均衡を保ち,その代償として27年ごとに再び蹂躙される.記憶が風化し,世代が入れ替わるのに要する忘却のタイムリミットなのだ.ペニーワイズは,対象の内側に潜む魂の「亀裂」を最悪の形で暴露する.ビルの前に現れるのは弟の死に対する癒えない罪悪感,エディを襲うのは母親によって過剰に植え付けられた病への強迫観念.なかでも,ベバリーのバスルームを埋め尽くす鮮烈な血の奔流は,初潮という身体的変容への戸惑いの痛切なイメージとして結実する.

 ペニーワイズの左右独立して動く眼球と絶え間ない涎は,生理的な不快感を超え不安を喚起させる.原作の1950年代から1989年へと舞台を移した判断も,ノスタルジーの回顧ではない.冷戦終結の足音が聞こえる中,家庭の奥底に暴力と差別が潜んでいた時代.撮影監督チョン・ジョンフン(Chung Chung-hoon)が切り取ったのは,黄金色に輝くまばゆい夏の光であった.美しい風景の中で,子供たちは人知れず傷つき,大人たちの組織的な無関心にさらされる.結局のところ,"それ"に立ち向かうルーザーズ・クラブが勝利を収めたのは,彼らが強くなったからではなかった.自らの弱さを互いに開示したからである.

 "それ"の戦略は常に「分断」にあった.個人のトラウマを突き,孤立させ,孤独の中で魂を喰らう.これに対し,少年少女たちは恥を晒し合い,孤立を拒絶することで怪物の餌食となることを拒んだ.「1人では負け犬でも,7人なら無敵だ」という言葉が,気休めを超えてわれわれの胸に深く刺さるのは,人生の過酷な現実においても,連帯が唯一の防波堤であることを誰もが直感しているからだろう.凄惨な恐怖の果てに綴られる,瑞々しくも残酷な子供時代の終わりの記録である.

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原題: IT

監督: アンディ・ムスキエティ

135分/アメリカ/2017年

© 2017 WARNER BROS. ENTERTAINMENT INC. AND RATPAC-DUNE ENTERTAINMENT LLC.

■「ブルース・リー神話」レナード・ホー

ブルース・リー神話 [DVD]

 没後10年を経て,ブルース・リーを普遍的アイコンとして総括したアーカイブ.子役のルーツや未公開映像,哲学,次世代への影響を多角的に解剖.アクション映画史の変遷を描き出す….

 逝から10年という歳月を経て,ブルース・リー(Bruce Lee)という存在が一人の格闘家から普遍的なアイコンへと昇華していく過程を総括したアーカイブである.1970年代に吹き荒れた熱狂的な「ドラゴン旋風」を,1980年代の冷静な視座によって,リーの遺した断片を編み直している.本作が他の凡百な格闘ドキュメンタリーと一線を画すのは,リーの表現者としてのルーツに光を当てている点にある.多くの観客は,リーを突如として現れた格闘の超人と見なしがちだが,本作は彼が子役時代に出演した「細路祥」(1950)などの映像を提示することで,カリスマ性が血統――父・李海泉は広東オペラの名士だった――と,香港映画の黄金期を支えたベテラン子役としての長年の経験に裏打ちされたものであることを語る.

 10代のリーが見せるカメラへの眼差しには,後に世界を震撼させる「静寂の中の怒り」の片鱗が既に宿っている.本作の中盤に挿入される1965年のハリウッドにおけるスクリーンテストの映像は貴重.黒いスーツに身を包み,知的な口調で語るリーの姿は,当時の東洋人に押し付けられていたステレオタイプに対する鮮烈な異議である.リーのアクションは,当時の映画界における舞踏のような振付に対するアンチテーゼであった.提唱したジークンドー(截拳道)は,最大効率の追求であり,その論理を「水になれ(Be Water)」という比喩で補完した.

 1984年当時,全世界のファンにとって最大の関心事は,未完のまま遺された「死亡遊戯」(1978)の全容であった.1978年に公開されたパッチワーク版「死亡遊戯」は,代役や過去作の切り貼りに終始し,リーが本来意図した格闘による哲学的啓蒙を著しく損なっていた.本作は,その「失われたパズル」の重要なピースを提示している.カリーム・アブドゥル=ジャバー(Kareem Abdul-Jabbar)との死闘の未公開テイクは,身長差という物理的優位性を,いかにしてスピードと知性が凌駕するかという格闘理論のデモンストレーションである.

 製作された1984年は,ジャッキー・チェン(Jackie Chan)がアジアのトップスターとしての地位を固め,サモ・ハン・キンポー(Sammo Hung)がアクション映画の黄金時代を築き上げていた頃,本作はこれらの次世代スターたちが,かつてリーの現場でスタントマンとして活動していた事実を効果的に挿入している.リーという巨星が超新星爆発を起こした後に残された「星屑」が,いかにして新たな銀河を形成したかという,アクション映画史における正統な血統図を描き出したといえるだろうか.リーが遺した「限界を持たないことを限界とする」(Using no way as way, having no limitation as limitation)という言葉は,本作を通じて映像的な裏付けを得た.1984年の時点でこれほど多角的にリーを解剖した作品は他になく,今なおファンが立ち返るべき聖典であり続けている.

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原題: BRUCE LEE - THE LEGEND

監督: レナード・ホー

88分/香港/1984年

© 1984 Fortune Star Media Limited / Bruce Lee Enterprises, LLC.

▼『森の隣人』ジェーン・グドール

 野生の叙事詩.1960年,ジェーン・グドールはタンザニアのゴンベ・ストリームで野生チンパンジーの観察を始め,謎に包まれた彼らの生態と社会をはじめて明らかにした.30余年の研究の基礎となった観察記録の白眉――.

 間とチンパンジーのゲノムは98.5パーセントが一致する.かつてこのわずか1.5パーセントの裂け目に,言語,抽象思考のすべてが凝縮されていると信じられてきた.しかし,ジェーン・グドール(Jane Goodall)がタンザニアのゴンベ・ストリームの密林で目撃した"隣人"は,フランツ・ボアズ(Franz Boas)以来の文化人類学的前提「文化は人間に固有の性質」を根底から震憾せしめた.チンパンジーは枯れ枝の葉をむしり取り,シロアリを釣る.素材を意図的に加工,目的のために道具へと転化させる行動を報告された師,古人類学者ルイス・リーキー(Louis Seymour Bazett Leakey)は,歴史に残る電報を打った.  

今や我々は『道具』を定義し直すべきか,『人間』を定義し直すべきか,さもなくばチンパンジーを人間として受け入れるべきだ

 道具を作る存在(Man the Tool-maker)を人間性の最後の砦としてきた時代の,痛烈かつ誠実な困惑が刻まれている.グドールの観察眼は,50年にわたる母子の愛着,血縁を超えた相互支援,集団内での精緻な権力交渉,死者を囲む静寂――自然人類学と文化人類学を分断していた深い溝を埋めるリンクとなった.人間と類人猿を隔てる境界線が,いかに恣意的な線引きに過ぎなかったかを白日の下に晒したのである.革命を可能にしたのは,既存のアカデミズムに対する静かな反逆であった.ボーンマスの海岸で動物と語らい,ターザン物語に胸を躍らせた少女がアフリカへ渡ったとき,学界は彼女を「素人」として冷遇した.当時の動物行動学において,観察対象に固有名を与えることは「擬人化」という大罪,客観性を損なう致命的な欠陥と断じられたからである.

 グドールはその禁忌を確信犯的に犯した.「デビッド・グレービアード」「フロ」「フリント」――彼女が個体に付与した名前は,それぞれの気質,知性,社会的文脈を記述する認識論的な選択であった.個体を,固有の歴史を生きる「主体」として捉え直すこの視座こそが,従来の分析では決して掬い取れなかった社会の多層的な動態を浮き彫りにしたのである.共感的観察は,手法を超えてひとつの倫理的な構えへと昇華される.対象の内側に潜り込もうとする意志なくして,彼らが抱擁し,慰め,悲しみのなかで沈黙する様を真実として記述することは不可能だっただろう.

 グドールは情愛に満ちた「チンパンジーの保護者」というステレオタイプに矮小化すれば,本書の本質を致命的に見誤る.グドールは,鋭敏な共感を携えつつも,極めて厳格なリアリストであり,自然の残酷さを一切隠蔽しない.1966年,ゴンベの群れにポリオが蔓延した際,感染拡大と個体の苦痛に終止符を打つべく,罹患した個体の射殺という非情な決断を下した.また,後にチンパンジーの集団が組織的な殺戮を繰り返した凄惨な記録「四年戦争」をも公表した.愛と絆だけでなく,縄張り欲と残虐性をも人間と共有しているという事実は,我々の隣人が決してエデンの園の住人ではないことを突きつけた.本書が描き出すのは,われわれの「影」(Shadow)としての類人猿である.

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Title: IN THE SHADOW OF MAN

Author: Jane Goodall

ISBN: 4022596635

© 1996 朝日新聞社

■「この森で、天使はバスを降りた」リー・デヴィッド・ズロトフ

この森で、天使はバスを降りた [DVD]

 感動する心を思い出させてくれた,独りぽっちの傷ついた天使.ある冬の夜.パーシーは,たった1人で田舎町のバス停に降り立った――古ぼけたレストラン“スピットファイヤー・グリル”で働きはじめたパーシー.住民たちは遠慮のない好奇の目を向ける.いつしか美しい森にも目を向けなくなった町の人々.しかし,最も傷ついていたのは,誰にも言えない過去を抱えていたパーシーだったのだ….

 鎖的なコミュニティが抱える沈黙の病,それを外部から来た「汚れ」を持つ女性が浄化していく過程の物語である.メイン州の架空の町ギリアドは,旧約聖書における癒やしの乳香(Gilead's Balm)の産地を想起させるかもしれない.預言者エレミヤが衰退に苦しむイスラエルに対して「ギリアドに乳香はないのか.そこに医者はいないのか(エレミヤ書 8:22)」と問いかけた.さらにアフリカ系アメリカ人の霊歌《There is a Balm in Gilead》では,乳香は魂の傷を癒やす聖者の救いの力に喩えられている.しかし,映画の冒頭におけるギリアドは,その名が約束する「乳香」を失い,過去の栄光に取り残され,衰退と相互監視に蝕まれた場所.

 ギリアドに医者はおらず,癒しもない.あるのは,閉ざされた心と消えかけた希望だけである.謎めいた女性パーシーが持っていたのは,古い旅行雑誌の切り抜き一枚.彼女は美しい自然にではなく,自分を知る者が誰もいない断絶を求めたのだ.アリソン・エリオット(Alison Elliott)の抑制された演技は,野生動物のような警戒心,内側に秘めた深い渇望を同居させている.癒やしを求めやって来た彼女こそが,ギリアドに失われていた「乳香」となる.本作の中核を成すのは,パーシー,グリルの店主ハンナ,気弱な主婦シェルビーという,世代も背景も異なる3人の変容である.ハンナは,息子を戦争で亡くした喪失を,厳格さと頑固さという鎧で守っている.彼女にとってのスピットファイア・グリルは,もはや過去を閉じ込めるための檻であった.

 当時まだブレイク前だったマーシャ・ゲイ・ハーデン(Marcia Gay Harden)演じるシェルビーは,家父長制の象徴である夫ケインに支配されている.彼女がパーシーと接することで,自らの言葉を取り戻していく過程は,本作の感動的なサブプロットのひとつである.3人が,グリルの譲渡を巡る「エッセイ・コンテスト」という奇妙な企画を通じて結託する.全米から「希望」「再出発」の物語を募るというメタ装置となっており,閉ざされていたギリアドの空気を入れ替える.意外なことに,製作費を支援したのはカトリック系の団体セイクレッド・ハート・リーグ.しかし,説教臭い宗教色は控えられ,魂の救済という精神性を追求した結果,1996年のサンダンスで最も世俗的な観客たちの涙を誘った.

 撮影は,メイン州の秋から冬への移ろいを,アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth)の絵画のような静謐さで捉え,森の中の「秘密の男」との交流シーンは,言葉を介さないコミュニケーションが持つ純粋な力を示している.パーシーの過去が暴かれ,町の人々の悪意が露わになる終盤,物語は避けられない悲劇へと向かう.しかし,その結末は絶望ではない.彼女が流した「水」は,ギリアドの呪いを解き,ハンナに再生を,シェルビーに自立を,そして町に新しい朝をもたらす.エレミヤが問うた「ギリアドに乳香はないのか」への答えは,ここにある.癒やしは,傷ついた者同士が差し出す手の中に,既に存在していたのだ.

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原題: THE SPITFIRE GRILL

監督: リー・デヴィッド・ズロトフ

116分/アメリカ/1996年

© 1996 Warner Bros. Entertainment Inc.

▼『人権宣言集』高木八尺,末延三次,宮沢俊義〔編〕

人権宣言集 (岩波文庫 白 1-1)

 人間の自由と権利を保障するための法律は,イギリスのマグナ・カルタを始祖とするが,今日では各国の成文憲法中に必ず人権宣言が含まれている.本書は歴史上ならびに現在の代表的人権宣言四十四種にそれぞれ専門家による解説を付し,さらに巻頭の編者による概説とあわせて人権宣言の系譜と現状とを明らかにする――.

 4の人権宣言を俯瞰すると,人権が発明され伝播していく様相が解る.フランス人権宣言(1789年)の起草者ラ=ファイエット(Marie Joseph Paul Yves Roch Gilbert Motier La Fayette)は,トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)との往来書簡で自由と人権の理論的基礎について深く論じた.つまり本書は,米国の経験主義的自由論がフランスの理性主義的自由論へと変換され,再び世界へ拡散していく思想の往還を記録しているのである.

 本書の真の価値は,編者たちによる訳の確実性にある.明治初期,"Rights"を日本語に訳す際,福澤諭吉をはじめ知識人たちは「権利」という造語に権力と利益の混在するニュアンスを感じ,その正当性に疑いを抱いていた.本書に並ぶ和訳群は,こうした外来概念の日本化という格闘の成果である."Rights","Liberty","Freedom"といった英米法源の微妙な区別が,編者によって初めて日本語読者に開かれる.

 初版の1957年は,日本国憲法施行から10年,世界人権宣言から9年というタイミングであった.過去の人権の闘争史を提示することで,当時の日本社会に人権は人類が幾世紀にもわたって,権力と対抗するなかで勝ち取ったものという自覚を促した.編者の宮沢俊義が「八月革命説」で主張した法理的革命という視座を踏まえるなら,本書は戦後日本の新しい法体制を知識的に支えるための論理的な防衛線として企画されたといえるだろうか.

 本書を繙くことは,現代においてもしばしば揺らぐ個人の尊厳の根拠を,人類史上最も洗練された論理で再確認する作業となる.マグナ・カルタから世界人権宣言に至る44の断片は,権力という洪水を防ぐための連鎖.それゆえ本書は,法学徒のみならず自由を信じるすべての市民が,不確実な未来を歩むための羅針盤として手許に置くべき一冊といえるだろう.

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原題: 人権宣言集

著者: 高木八尺,末延三次,宮沢俊義〔編〕

ISBN: 4003400119

© 1957 岩波書店