▼『森の隣人』ジェーン・グドール

 野生の叙事詩.1960年,ジェーン・グドールはタンザニアのゴンベ・ストリームで野生チンパンジーの観察を始め,謎に包まれた彼らの生態と社会をはじめて明らかにした.30余年の研究の基礎となった観察記録の白眉――.

 間とチンパンジーのゲノムは98.5パーセントが一致する.かつてこのわずか1.5パーセントの裂け目に,言語,抽象思考のすべてが凝縮されていると信じられてきた.しかし,ジェーン・グドール(Jane Goodall)がタンザニアのゴンベ・ストリームの密林で目撃した"隣人"は,フランツ・ボアズ(Franz Boas)以来の文化人類学的前提「文化は人間に固有の性質」を根底から震憾せしめた.チンパンジーは枯れ枝の葉をむしり取り,シロアリを釣る.素材を意図的に加工,目的のために道具へと転化させる行動を報告された師,古人類学者ルイス・リーキー(Louis Seymour Bazett Leakey)は,歴史に残る電報を打った.  

今や我々は『道具』を定義し直すべきか,『人間』を定義し直すべきか,さもなくばチンパンジーを人間として受け入れるべきだ

 道具を作る存在(Man the Tool-maker)を人間性の最後の砦としてきた時代の,痛烈かつ誠実な困惑が刻まれている.グドールの観察眼は,50年にわたる母子の愛着,血縁を超えた相互支援,集団内での精緻な権力交渉,死者を囲む静寂――自然人類学と文化人類学を分断していた深い溝を埋めるリンクとなった.人間と類人猿を隔てる境界線が,いかに恣意的な線引きに過ぎなかったかを白日の下に晒したのである.革命を可能にしたのは,既存のアカデミズムに対する静かな反逆であった.ボーンマスの海岸で動物と語らい,ターザン物語に胸を躍らせた少女がアフリカへ渡ったとき,学界は彼女を「素人」として冷遇した.当時の動物行動学において,観察対象に固有名を与えることは「擬人化」という大罪,客観性を損なう致命的な欠陥と断じられたからである.

 グドールはその禁忌を確信犯的に犯した.「デビッド・グレービアード」「フロ」「フリント」――彼女が個体に付与した名前は,それぞれの気質,知性,社会的文脈を記述する認識論的な選択であった.個体を,固有の歴史を生きる「主体」として捉え直すこの視座こそが,従来の分析では決して掬い取れなかった社会の多層的な動態を浮き彫りにしたのである.共感的観察は,手法を超えてひとつの倫理的な構えへと昇華される.対象の内側に潜り込もうとする意志なくして,彼らが抱擁し,慰め,悲しみのなかで沈黙する様を真実として記述することは不可能だっただろう.

 グドールは情愛に満ちた「チンパンジーの保護者」というステレオタイプに矮小化すれば,本書の本質を致命的に見誤る.グドールは,鋭敏な共感を携えつつも,極めて厳格なリアリストであり,自然の残酷さを一切隠蔽しない.1966年,ゴンベの群れにポリオが蔓延した際,感染拡大と個体の苦痛に終止符を打つべく,罹患した個体の射殺という非情な決断を下した.また,後にチンパンジーの集団が組織的な殺戮を繰り返した凄惨な記録「四年戦争」をも公表した.愛と絆だけでなく,縄張り欲と残虐性をも人間と共有しているという事実は,我々の隣人が決してエデンの園の住人ではないことを突きつけた.本書が描き出すのは,われわれの「影」(Shadow)としての類人猿である.

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Title: IN THE SHADOW OF MAN

Author: Jane Goodall

ISBN: 4022596635

© 1996 朝日新聞社