▼『欲望という名の電車』テネシー・ウィリアムズ

欲望という名の電車 (新潮文庫)

 「『欲望』という名の電車に乗って」ブランチが降り立ったのは,ニューオーリアンズの下町フレンチ・クォーター.南部の大農園の娘から身を持ちくずし,妹ステラのアパートに身を寄せた.傷心のまま過去の夢に生きる彼女を迎えたのはしかし,ステラの夫スタンリーらの,粗暴なまでの"新しいアメリカ"の生だった――.

 落する南部貴族の幻想(オールド・サウス)と台頭する産業社会の現実(ニュー・サウス)とのあいだに生じた地殻変動を,一つの家族に担わせた悲劇である.テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams)がニューオーリンズのフレンチ・クオーターに住んでいた頃,欲望(Desire)行きと墓場(Cemeteries)行きの路面電車が実際に彼の部屋の近くを走っていた.ブランチ・デュボワの有名な第一声——「『欲望』という名の電車に乗って,『墓場』で乗り換え,『極楽』で降りる」——が詩的比喩ではなく当時の交通ルートであった事実は,そのまま劇の論理へと昇華される.

 欲望に身を任せた果てに死(墓場)を迎え,行き着く先が極楽という名の安普請のアパートであるというアイロニー.冒頭のわずか数行で,ブランチはすでに「死にゆく存在」として舞台に迷い込んできたことが,宣告されている.本作の初期ワーキング・タイトルは,『蛾(The Moth)』だった.蛾は暗闇を好む一方,自らを焼き尽くす炎に抗いがたく引き寄せられる.ブランチもまた,老いと過去の罪から逃れるために裸電球に色紙の提灯を被せ,真実の光を遮断して幻想の中に生きようとしながら,自らを破滅へ導く――欲望の炎(若い兵士たち,見知らぬ男たちへの性衝動)――に飛び込まずにいられない.

 ウィリアムズの当初の構想では,スタンリー・コワルスキーはより明確な「悪役」として造形されていた.ブロードウェイ初演で当時無名のマーロン・ブランド(Marlon Brando)がこの役を演じたことで,劇の力学は一変する.ブランドは,スタンリーに抗いがたい動物的魅力とある種の純粋さを与えた.論理の上では,スタンリーはブランチを精神的に追い詰め,最終的に陵辱する加害者である.しかし強烈な生命力の前に,観客は彼へ引き寄せられてゆく.美しく脆い過去を,野蛮だが生命力に溢れる現在が駆逐する必然を,ウィリアムズは観客に皮膚感覚で——そして共犯的に——受け入れさせたのだ.ブランチが精神病院へと連れ去られる結末は,弱者が社会というシステムから排除されるプロセスを冷たく写し取っている.ウィリアムズは生涯,精神を病んだ姉ローズ・ウィリアムズ(Rose Isabel Williams)に対して深い罪悪感を抱き続けた.

 1943年,ローズは両親の同意のもとロボトミー手術を受け,その輝かしい個性を永遠に失った.この伝記的事実を重ねるとき,ブランチの最後の台詞「見知らぬ人のご親切にすがって生きてきました」は,全く異なる重力を帯びる.精神を崩した女の譫妄ではない.家族にすら見捨てられ,制度という「見知らぬ人」に身を委ねるしかない社会的弱者の,絶対的な孤立の宣言なのだ.妹のステラは,姉(旧時代の精神性)を見捨てることで,夫(新時代の生命力)のもとに留まり,赤ん坊(未来)を育てることを選ぶ.変化する世界において「生き残るために何を切り捨てなければならないか」という,感傷を超えた生存の論理である.しかしそれは,魂の一部を殺すほどの代償を伴うものだった.

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Title: A STREETCAR NAMED DESIRE

Author: Tennessee Williams

ISBN: 4102109064

© 1988 新潮社

■「木洩れ日の家で」ドロタ・ケンジェジャフスカ

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 ワルシャワ郊外の緑に囲まれた木造の古い屋敷,その家で愛犬フィラデルフィアと静かに暮らす一人の女性アニェラ,91歳.年老いてなお美しく,そして誇り高く生きる彼女は,戦前に両親が建てたその家で生まれ,成長し,恋をし,夫と暮らし,一人息子ヴィトゥシュを育ててきた.夫はとうに他界し,息子も結婚して家を出ていた.共産主義時代に政府から強制された間借人もようやく出ていき,アニェラは今,さほど長くはない自らの余生と彼女が愛する家をどうするか考えていた….

 や手に深く刻まれた皺,柔和に見えて鋭い眼光.老女アニェラと演じるダヌタ・シャフラルスカ(Danuta Szaflarska)のあいだには,役と人格の境界を曖昧にするほどの共鳴がある.1927年の初舞台以来,芸歴80余年を数える女優のために書き下ろされた脚本は,ユーモアを湛えながらも,古色蒼然とした屋敷に漂う峻厳な気配を手放さない.家族とは明確に一線を引き,愛犬フィラデルフィアとの静かな語らいに慰めを求める.

 アニェラは,すでに浪費した時間の大きさと,これから積み重ねられる時間のわずかさを,過不足なく知っている.固陋な老人らしく両隣への好奇心と不満を募らせ,世間への反発を呟くことだけが,この世に留まる細い理由となっている.ワルシャワに生まれ,一世紀近くを生き抜いた身に残された最後の「難事業」とは,老いた体の後始末にすぎない.そうした来し方の重みと達観とが,埃さえも煌めいて舞うモノクロ映像の質感と静かに響き合う.

 若き日の追憶,息子一家との確執――すべてを包みこむ郊外の古屋敷は,やがて「棺桶」の役割を果たすべく佇んでいる.老女の最後の願いは,驚くほど穏やかに,意外性もなく叶えられる.しかしアニェラの「決断」により,必然と見えた孤独死は回避される.愛犬ではなく,人の手によって最期を見届けられるという安堵.静かな救済は,観る者にもかすかな神々しさとともに伝わってくる.

 アニェラの伴侶たるボーダーコリー,フィラデルフィア.賢い目をした牧羊犬は,映画の上ではメスだが,実際にはオスである.アニェラの語りかけや独り言を含むせりふはすべて脚本に書き込まれ,最初から決まっていたという.それでもフィラデルフィアは,シャフラルスカとの呼吸を寸分の狂いなく合わせ,豊かな表情でスクリーンを満たす.愛犬家には抗いがたい愛らしさを持つこの名優は,その芸達者ぶりを認められ,本作においてグディニャ・ポーランド映画祭の特別賞を手にした.

木洩れ日の家で [DVD]

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原題: PORA UMIERAC

監督: ドロタ・ケンジェジャフスカ

104分/ポーランド/2007年

© 2007 Kid Film, Tandem Taren-To, Telewizja Polska, Polski Instytut Sztuki Filmowej

▼『日本画と材料』荒井経

日本画と材料 近代に創られた伝統

 日本画のアイデンティティともされる「岩絵具」や「和紙」.それらの歴史は,意外なほど浅い.明治以降,日本画の材料が今あるかたちへと変化を遂げた真の理由とは? 日本画家であり,気鋭の研究者でもある著者が,日本画の祖とされる狩野芳崖の《仁王捉鬼図》に対する蛍光X線分析を使った自然科学調査を皮切りに,文献資料を手掛かりにした材料史的研究などを通して,明治時代から現代までの日本画材料の変化を辿りつつ,韓国,中国,台湾といった東アジア各国の国号絵画についての渡航調査などを総合して,多角的な視点から「日本画とは何か」を考察――.

 本画(Nihonga)という呼称は,明治期に「洋画」の対義語として事後的に立ち上げられた概念であることは,美術史の常識に属する.本書は,エリック・ホブズボーム(Eric John Ernest Hobsbawm)のいう「創られた伝統」を,「絵具」「紙」「墨」という即物的な物質(マテリアル)の変容から実証する.アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)や岡倉天心が東洋の理想と称揚した狩野芳崖の諸作には,プルシアンブルーをはじめとする西洋製合成顔料が多用されていた.

 精神史として語られてきた様式の変遷が,輸入顔料の化学的論理に下支えされていたという転倒は,本書全体を貫く問題意識である.岩絵具の近代化も両義性を孕む.人造岩絵具の普及は色材を民主化する一方,油彩の重厚感に対抗しようとした日本画をマティエール(絵肌)の肥大化へと引き込んだ.さらに著者は,展覧会制度という外圧が大判和紙の開発を促し,水墨的な滲みの文化(中国の麻紙的伝統)を切り捨てた選択を「脱亜入欧」の物質的証明として読む.

 それは,支持体の地政学とでも呼ぶべき視点.終章の「模写」論は,切断の自覚から再統合への議論である.書画同源の思想を矮小化し,東アジアの文脈で特異な孤立進化を遂げた「国号絵画」が,シルクロードや中国壁画との物質的・技術的交流を通じて再構築される可能性,そこに著者の前向きな批評眼が滲む.純粋無垢な伝統という重圧から日本画を解放し,明治の画家たちが異文化と格闘した切実な創造の歴史として再評価するための書である.

日本画と材料 近代に創られた伝統

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原題: 日本画と材料―近代に創られた伝統

著者: 荒井経

ISBN: 4864630348

© 2015 武蔵野美術大学出版局

▼『進化論を拒む人々』鵜浦裕

進化論を拒む人々: 現代カリフォルニアの創造論運動

 アメリカは人種的にも,文化的にも,宗教的にも多様である.この多様な価値観を受け入れ,それでもなお一つの全体社会として存立する道を模索している.はたして公立学校は,宗教的多様性を尊重しながら,かつ「国家と宗教」の分離原則を維持できるようなカリキュラムを作れるのだろうか.無信仰をふくめ,あらゆる信仰の学生を受け入れられるような学校社会を作れるのだろうか.教育現場を舞台にした三つの事件を追って,もう一つのアメリカをリポートする――.

 メリカ合衆国が建国以来抱えてきた根本的なジレンマ――「多様性の尊重」「政教分離」が衝突する地点――として,進化論教育はその矛盾が鮮烈に争われる戦場であり続けている.1920年代の反進化論州法とスコープス裁判は,しばしば「無知な原理主義」対「啓蒙された近代科学」という構図で語られてきたが,アメリカの文化的・宗教的闘争には,資本主義的プラグマティズムが当初から深く絡み合っていた.

 創造論者たちの運動が,法制度・メディア・民主主義的プロセスを巧みに利用するしたたかな制度運動であるというテーゼは,この歴史認識を土台として初めて説得力を持つ.具体的には,創造大学院取り潰し事件(第2章)ヴィスタ教育委員会乗っ取り事件(第4章)は,草の根の原理主義者たちが公教育のカリキュラムを内側から変容させていくプロセスでもある.リベラルな社会は,自らの価値観を根底から否定しようとする非リベラルな勢力に対しても寛容であり続けねばならないのだろうか.このパラドックスは,創造論からインテリジェント・デザイン(ID)への戦略的転換をめぐって深まる.

 サンフランシスコ州立大学教授ディーン・ケニヨン(Dean Kenyon)を介して描かれる転換は,宗教的な「創造」という語を回避し,より科学的な外観を持つ「知的設計」という概念を前景化することで政教分離の壁をすり抜けようとする.だがその企図は皮肉な形で露呈した.ID論の副読本『パンダと人間』の草稿において,1987年の最高裁判決後に"creationists"を"design proponents"へと機械的に置換した際のミスが,"cdesign proponentsists"という無意味な造語を文書内に残してしまった.後の裁判――キッツミラー対ドーバー学区裁判――でこの言語的痕跡が決定的証拠となり,IDが創造論の衣替えに過ぎないことが証明された.

 本書の射程は,カリフォルニアという限定された舞台を超え,ローカルな事例から全米的な動態に及ぶ.あえて限界を指摘するならば,議論の焦点がエリート層の法廷闘争と活動家の政治戦術に偏るため,ごく普通の信者たちが進化論を実存的な脅威として受け取る内的論理――神学的・心理的な次元――の描写が相対的に希薄になっている点だろうか.制度的闘争の解剖には成功しているが,その闘争を駆動する主体の内面には,いま一歩踏み込む余地があったように思われる.それでも,無信仰を含むあらゆる信仰の生徒を受け入れられる公共空間を,いかに構築しうるかという問題意識は,出版から年月を経た現在においても少しも古びていない.

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原題: 進化論を拒む人々―現代カリフォルニアの創造論運動

著者: 鵜浦裕

ISBN: 4326652195

© 1998 勁草書房

▼『数学を愛した作家たち』片野善一郎

数学を愛した作家たち (新潮新書 167)

 自らの描いた数学教師「坊っちゃん」より,はるかに数学が得意だった漱石.数学が苦手で,士官学校の受験に失敗した二葉亭四迷.父親や社会の偽善を憎むがゆえに数学に没頭した,少年時代のスタンダール.英国の科学・数学偏重の風潮を,ガリヴァーに托して皮肉ったスウィフト……東西11人の作家と数学,作品と数学にまつわるエピソード集.文学的素養や発想法に着目した,古今の数学者たちについても触れる――.

 何学的精神と繊細の精神.ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal)が腑分けした二項が,古今の文学者の中でいかに衝突し,いかに溶け合ってきたか.建築科を志すほど数学に明るかった夏目漱石は,『坊っちゃん』の主人公に数学教師の肩書を与えながら,論理的思考力のかけらも持たせなかった.実学を愛しながらも,無味乾燥な計算芸への堕落への軽蔑という複雑な愛憎が人物造形に滲んでいる.

 正岡子規の「短歌滅亡論」もまた,受験への怨嗟として読まれがちだが,著者はそこに別の光を当てる.「限られた文字数の順列組み合わせには数学的な限界が来る」という直観こそ,主張の骨格だという.文学作品において数学者は,しばしば理解不能な奇人として現れる.泉鏡花が描く数学教師の恐るべき妄執,新田次郎が和算小説に活写する派閥争いと秘密主義――算額という土俵で繰り広げられる勝負の世界は,芸術家の狂気と等価の情念に満ちている.海を渡れば,エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe),ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift)という巨人が数学に鋭い刃を向ける.

 論理と洞察を研ぎ澄ませたオーギュスト・デュパンの「代数的推論を分析と混同する者」への批判は,分析を数学の独占物とする思い込みへの反駁,詩的想像力が伴わぬ計算の無力さ,と言い換えてもよい.スウィフトはラピュタの住人たちに,非実用的な科学と数学に耽溺するあまり足元の現実を見失った知識人の滑稽を演じさせた.グルノーブルきっての数学少年だったスタンダール(Marie-Henri Beyle)が数学に幻滅したのは,マイナス掛けるマイナスがプラスになる理由を誰も哲学的に説明してくれなかったからだった.

 数学の極点には文学的飛躍があり,文学の根底には論理的構築があるならば,文系・理系という境界線は,人間の知性が自ら引いた人工的な傷に過ぎない.スタンダールは計算の奥にすら権威による押しつけを嗅ぎ取り,より深い人間の真実を求めて文学へと向かった.対してポール・ヴァレリー(Paul Valéry)は,50を過ぎてもなお数学書を読み漁った.彼にとってそれは実用の道具ではなく,純粋な論理と思考の美が結晶する「空間の神々の神殿」,文学的想像力を滋養する極上の触媒だった.

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原題: 数学を愛した作家たち

著者: 片野善一郎

ISBN: 410610167X

© 2006 新潮社