▼『ザ・キルスコア』ヤコブ・トーメ

ザ・キルスコア 資本主義とサステナビリティーのジレンマ

 欧州拠点の独立系金融シンクタンクの共同創設者で日本の金融庁や各国中央銀行のアドバイザーも務めた著者が,資本主義が生む膨大な犠牲と社会の致命的結末をあらゆるソースを用いて「キルスコア」として数値化.「消費とサステナビリティーの両立」という究極の難題に真正面から向き合い,私たちの姿勢を問う――.

 ティス・ワケナゲル(Mathis Wackernagel)とウィリアム・リース(William Rees)が1990年代に提唱したエコロジカル・フットプリントは,資源消費の総量を可視化する指標だった.本書が照準するのは,異なる次元の損失――「奪われる命」である.著者が「キルスコア」と名付けた指標は,5つのカテゴリ――気候変動・廃棄物・労働関連死・匿名消費と孤独・暴力と紛争――を通じて,人命の喪失という不可逆の結末を数値で示す.

 注目すべきは,炭素排出や廃棄物汚染と並んで,社会的孤立という精神的・関係的な損傷を同列に置いた構成上の選択である.資本主義が生産する孤独や分断をも致命的結末として組み込むことで,経済活動の外部性概念を情緒的・実存的領域にまで押し広げようとする.気候リスクと金融システムの接続を長年研究してきた著者が,市場の価格機構では捕捉しえない損失の総体を可視化しようとする姿勢は,現代のサステナブル・ファイナンスが抱える限界への,内側からの批判として読むことができる.

 大気汚染による健康被害,熱帯雨林の消失にともなう生物多様性の喪失,社会的孤独による死――これらは質的に異質な損害である.それを「命の数」という単一の尺度に集約することは,本来比較不可能なものを比較可能にしてしまう暴力性を内包する.この危険は,ESG投資のレーティング機関が長年直面してきた評価基準の恣意性というジレンマと,本質的に同一のものだ.キルスコアの説得力は,集約の前提に置かれた重み付けの透明性と批判的検証可能性にかかっている.

 「スコアを知れば人は行動を変える」という暗黙の前提は,情報提供のみでは行動変容は起きないという行動経済学の蓄積と正面から対立する.消費とサステナビリティの両立というジレンマへの問いかけは真剣に受け止めるに値するが,可視化は介入の端緒たり得ても,それ自体は処方箋ではない.キルスコアという概念の挑発力は本物であるものの,問いの重さに見合う論述の精度には達していない.その射程を論証するためには,測定前提の明示,異質な被害を集約することへの方法論的自覚,そして数値の先にある制度的・構造的処方箋の提示が不可欠となる.その意味で本書は,未完の問題提起として位置づけるのが適切であろう.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: DER KILL SCORE - AUF DEN SPUREN UNSERES ÖKOLOGISCHEN UND SOZIALEN FUSSABDRUCKS

Author: Jakob Thomä

ISBN: 4863135858

© 2023 日経ナショナルジオグラフィック

▼『欲望という名の電車』テネシー・ウィリアムズ

欲望という名の電車 (新潮文庫)

 「『欲望』という名の電車に乗って」ブランチが降り立ったのは,ニューオーリアンズの下町フレンチ・クォーター.南部の大農園の娘から身を持ちくずし,妹ステラのアパートに身を寄せた.傷心のまま過去の夢に生きる彼女を迎えたのはしかし,ステラの夫スタンリーらの,粗暴なまでの"新しいアメリカ"の生だった――.

 落する南部貴族の幻想(オールド・サウス)と台頭する産業社会の現実(ニュー・サウス)とのあいだに生じた地殻変動を,一つの家族に担わせた悲劇である.テネシー・ウィリアムズ(Tennessee Williams)がニューオーリンズのフレンチ・クオーターに住んでいた頃,欲望(Desire)行きと墓場(Cemeteries)行きの路面電車が実際に彼の部屋の近くを走っていた.ブランチ・デュボワの有名な第一声——「『欲望』という名の電車に乗って,『墓場』で乗り換え,『極楽』で降りる」——が詩的比喩ではなく当時の交通ルートであった事実は,そのまま劇の論理へと昇華される.

 欲望に身を任せた果てに死(墓場)を迎え,行き着く先が極楽という名の安普請のアパートであるというアイロニー.冒頭のわずか数行で,ブランチはすでに「死にゆく存在」として舞台に迷い込んできたことが,宣告されている.本作の初期ワーキング・タイトルは,『蛾(The Moth)』だった.蛾は暗闇を好む一方,自らを焼き尽くす炎に抗いがたく引き寄せられる.ブランチもまた,老いと過去の罪から逃れるために裸電球に色紙の提灯を被せ,真実の光を遮断して幻想の中に生きようとしながら,自らを破滅へ導く炎――若い兵士たち,見知らぬ男たちへの性衝動――に飛び込まずにいられない.

 ウィリアムズの当初の構想では,スタンリー・コワルスキーはより明確な「悪役」として造形されていた.ブロードウェイ初演で当時無名のマーロン・ブランド(Marlon Brando)がこの役を演じたことで,劇の力学は一変する.ブランドは,スタンリーに抗いがたい動物的魅力とある種の純粋さを与えた.論理の上では,スタンリーはブランチを精神的に追い詰め,最終的に陵辱する加害者である.しかし強烈な生命力の前に,観客は彼へ引き寄せられてゆく.美しく脆い過去を,野蛮だが生命力に溢れる現在が駆逐する必然を,ウィリアムズは観客に皮膚感覚で——そして共犯的に——受け入れさせたのだ.ブランチが精神病院へと連れ去られる結末は,弱者が社会というシステムから排除されるプロセスを冷たく写し取っている.ウィリアムズは生涯,精神を病んだ姉ローズ・ウィリアムズ(Rose Isabel Williams)に対して深い罪悪感を抱き続けた.

 1943年,ローズは両親の同意のもとロボトミー手術を受け,その輝かしい個性を永遠に失った.この伝記的事実を重ねるとき,ブランチの最後の台詞「見知らぬ人のご親切にすがって生きてきました」は,全く異なる重力を帯びる.精神を崩した女の譫妄ではない.家族にすら見捨てられ,制度という「見知らぬ人」に身を委ねるしかない社会的弱者の,絶対的な孤立の宣言なのだ.妹のステラは,姉(旧時代の精神性)を見捨てることで,夫(新時代の生命力)のもとに留まり,赤ん坊(未来)を育てることを選ぶ.変化する世界において「生き残るために何を切り捨てなければならないか」という,感傷を超えた生存の論理である.しかしそれは,魂の一部を殺すほどの代償を伴うものだった.

++++++++++++++++++++++++++++++

Title: A STREETCAR NAMED DESIRE

Author: Tennessee Williams

ISBN: 4102109064

© 1988 新潮社

■「木洩れ日の家で」ドロタ・ケンジェジャフスカ

木洩れ日の家で [DVD]

 ワルシャワ郊外の緑に囲まれた木造の古い屋敷,その家で愛犬フィラデルフィアと静かに暮らす一人の女性アニェラ,91歳.年老いてなお美しく,そして誇り高く生きる彼女は,戦前に両親が建てたその家で生まれ,成長し,恋をし,夫と暮らし,一人息子ヴィトゥシュを育ててきた.夫はとうに他界し,息子も結婚して家を出ていた.共産主義時代に政府から強制された間借人もようやく出ていき,アニェラは今,さほど長くはない自らの余生と彼女が愛する家をどうするか考えていた….

 や手に深く刻まれた皺,柔和に見えて鋭い眼光.老女アニェラと演じるダヌタ・シャフラルスカ(Danuta Szaflarska)のあいだには,役と人格の境界を曖昧にするほどの共鳴がある.1927年の初舞台以来,芸歴80余年を数える女優のために書き下ろされた脚本は,ユーモアを湛えながらも,古色蒼然とした屋敷に漂う峻厳な気配を手放さない.家族とは明確に一線を引き,愛犬フィラデルフィアとの静かな語らいに慰めを求める.

 アニェラは,すでに浪費した時間の大きさと,これから積み重ねられる時間のわずかさを,過不足なく知っている.固陋な老人らしく両隣への好奇心と不満を募らせ,世間への反発を呟くことだけが,この世に留まる細い理由となっている.ワルシャワに生まれ,一世紀近くを生き抜いた身に残された最後の「難事業」とは,老いた体の後始末にすぎない.そうした来し方の重みと達観とが,埃さえも煌めいて舞うモノクロ映像の質感と静かに響き合う.

 若き日の追憶,息子一家との確執――すべてを包みこむ郊外の古屋敷は,やがて「棺桶」の役割を果たすべく佇んでいる.老女の最後の願いは,驚くほど穏やかに,意外性もなく叶えられる.しかしアニェラの「決断」により,必然と見えた孤独死は回避される.愛犬ではなく,人の手によって最期を見届けられるという安堵.静かな救済は,観る者にもかすかな神々しさとともに伝わってくる.

 アニェラの伴侶たるボーダーコリー,フィラデルフィア.賢い目をした牧羊犬は,映画の上ではメスだが,実際にはオスである.アニェラの語りかけや独り言を含むせりふはすべて脚本に書き込まれ,最初から決まっていたという.それでもフィラデルフィアは,シャフラルスカとの呼吸を寸分の狂いなく合わせ,豊かな表情でスクリーンを満たす.愛犬家には抗いがたい愛らしさを持つこの名優は,その芸達者ぶりを認められ,本作においてグディニャ・ポーランド映画祭の特別賞を手にした.

木洩れ日の家で [DVD]

木洩れ日の家で [DVD]

  • ダヌタ・シャフラルスカ
Amazon

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: PORA UMIERAC

監督: ドロタ・ケンジェジャフスカ

104分/ポーランド/2007年

© 2007 Kid Film, Tandem Taren-To, Telewizja Polska, Polski Instytut Sztuki Filmowej

▼『日本画と材料』荒井経

日本画と材料 近代に創られた伝統

 日本画のアイデンティティともされる「岩絵具」や「和紙」.それらの歴史は,意外なほど浅い.明治以降,日本画の材料が今あるかたちへと変化を遂げた真の理由とは? 日本画家であり,気鋭の研究者でもある著者が,日本画の祖とされる狩野芳崖の《仁王捉鬼図》に対する蛍光X線分析を使った自然科学調査を皮切りに,文献資料を手掛かりにした材料史的研究などを通して,明治時代から現代までの日本画材料の変化を辿りつつ,韓国,中国,台湾といった東アジア各国の国号絵画についての渡航調査などを総合して,多角的な視点から「日本画とは何か」を考察――.

 本画(Nihonga)という呼称は,明治期に「洋画」の対義語として事後的に立ち上げられた概念であることは,美術史の常識に属する.本書は,エリック・ホブズボーム(Eric John Ernest Hobsbawm)のいう「創られた伝統」を,「絵具」「紙」「墨」という即物的な物質(マテリアル)の変容から実証する.アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa)や岡倉天心が東洋の理想と称揚した狩野芳崖の諸作には,プルシアンブルーをはじめとする西洋製合成顔料が多用されていた.

 精神史として語られてきた様式の変遷が,輸入顔料の化学的論理に下支えされていたという転倒は,本書全体を貫く問題意識である.岩絵具の近代化も両義性を孕む.人造岩絵具の普及は色材を民主化する一方,油彩の重厚感に対抗しようとした日本画をマティエール(絵肌)の肥大化へと引き込んだ.さらに著者は,展覧会制度という外圧が大判和紙の開発を促し,水墨的な滲みの文化(中国の麻紙的伝統)を切り捨てた選択を「脱亜入欧」の物質的証明として読む.

 それは,支持体の地政学とでも呼ぶべき視点.終章の「模写」論は,切断の自覚から再統合への議論である.書画同源の思想を矮小化し,東アジアの文脈で特異な孤立進化を遂げた「国号絵画」が,シルクロードや中国壁画との物質的・技術的交流を通じて再構築される可能性,そこに著者の前向きな批評眼が滲む.純粋無垢な伝統という重圧から日本画を解放し,明治の画家たちが異文化と格闘した切実な創造の歴史として再評価するための書である.

日本画と材料 近代に創られた伝統

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 日本画と材料―近代に創られた伝統

著者: 荒井経

ISBN: 4864630348

© 2015 武蔵野美術大学出版局

▼『進化論を拒む人々』鵜浦裕

進化論を拒む人々: 現代カリフォルニアの創造論運動

 アメリカは人種的にも,文化的にも,宗教的にも多様である.この多様な価値観を受け入れ,それでもなお一つの全体社会として存立する道を模索している.はたして公立学校は,宗教的多様性を尊重しながら,かつ「国家と宗教」の分離原則を維持できるようなカリキュラムを作れるのだろうか.無信仰をふくめ,あらゆる信仰の学生を受け入れられるような学校社会を作れるのだろうか.教育現場を舞台にした三つの事件を追って,もう一つのアメリカをリポートする――.

 メリカ合衆国が建国以来抱えてきた根本的なジレンマ――「多様性の尊重」「政教分離」が衝突する地点――として,進化論教育はその矛盾が鮮烈に争われる戦場であり続けている.1920年代の反進化論州法とスコープス裁判は,しばしば「無知な原理主義」対「啓蒙された近代科学」という構図で語られてきたが,アメリカの文化的・宗教的闘争には,資本主義的プラグマティズムが当初から深く絡み合っていた.

 創造論者たちの運動が,法制度・メディア・民主主義的プロセスを巧みに利用するしたたかな制度運動であるというテーゼは,この歴史認識を土台として初めて説得力を持つ.具体的には,創造大学院取り潰し事件(第2章)ヴィスタ教育委員会乗っ取り事件(第4章)は,草の根の原理主義者たちが公教育のカリキュラムを内側から変容させていくプロセスでもある.リベラルな社会は,自らの価値観を根底から否定しようとする非リベラルな勢力に対しても寛容であり続けねばならないのだろうか.このパラドックスは,創造論からインテリジェント・デザイン(ID)への戦略的転換をめぐって深まる.

 サンフランシスコ州立大学教授ディーン・ケニヨン(Dean Kenyon)を介して描かれる転換は,宗教的な「創造」という語を回避し,より科学的な外観を持つ「知的設計」という概念を前景化することで政教分離の壁をすり抜けようとする.だがその企図は皮肉な形で露呈した.ID論の副読本『パンダと人間』の草稿において,1987年の最高裁判決後に"creationists"を"design proponents"へと機械的に置換した際のミスが,"cdesign proponentsists"という無意味な造語を文書内に残してしまった.後の裁判――キッツミラー対ドーバー学区裁判――でこの言語的痕跡が決定的証拠となり,IDが創造論の衣替えに過ぎないことが証明された.

 本書の射程は,カリフォルニアという限定された舞台を超え,ローカルな事例から全米的な動態に及ぶ.あえて限界を指摘するならば,議論の焦点がエリート層の法廷闘争と活動家の政治戦術に偏るため,ごく普通の信者たちが進化論を実存的な脅威として受け取る内的論理――神学的・心理的な次元――の描写が相対的に希薄になっている点だろうか.制度的闘争の解剖には成功しているが,その闘争を駆動する主体の内面には,いま一歩踏み込む余地があったように思われる.それでも,無信仰を含むあらゆる信仰の生徒を受け入れられる公共空間を,いかに構築しうるかという問題意識は,出版から年月を経た現在においても少しも古びていない.

++++++++++++++++++++++++++++++

原題: 進化論を拒む人々―現代カリフォルニアの創造論運動

著者: 鵜浦裕

ISBN: 4326652195

© 1998 勁草書房