| アイルランドには蛇がいないという「神話」を逆手に取り,人種差別への復讐に猛毒蛇を用いる知的な倒錯を描く.緻密なリアリズムで構築された完璧な計画が,皮肉にも無知という盲点によって破綻する――. |
フレデリック・フォーサイス(Frederick Forsyth)の名声は,『ジャッカルの日』に代表される長編スパイ小説の緻密なリアリズムによって築かれた.しかし,技巧が純度の高い結晶となるのは,むしろ短編という密閉された空間においてである.5世紀,聖パトリック(Saint Patrick)が島中の蛇を海へ追い払ったという伝説は,地質学的には氷河期の地形的孤立にすぎない事象だが,科学的事実と宗教的神話が混然一体となり,文化的公理(アクシオム)となった.フォーサイスが着目したのは,この公理が生み出す認知の死角である.
人は存在し得ないものを視界に入れても,認識することを拒む.心理的盲点が,本作における真の凶器.物理的な毒牙よりも,より確実に,より残酷に人を殺す――人間の認識は,脆弱な前提の上に成り立っている.物語の表層は,古典的な復讐劇の形をとる.インド人留学生ラムは,建設現場の職長キャメロンから執拗な人種差別と虐待を受ける.身体的暴力と社会的地位を背景にした職長の優位は,一見揺るぎない.しかしフォーサイスは,この構図を「知識の非対称」によって鮮やかに反転させる.
ヒンドゥー教の女神の教え「蛇はアイルランドにはいないが,アイルランド人の中に蛇がいる」に従い,ラムが選んだノコギリヘビ――インドに生息する極めて危険な毒蛇――これほどの凶器であっても,アイルランドにおいては存在しないため,発見されても識別されず,目撃されても否定される.生態描写に注がれる詳細さは,ジャーナリスト出身のフォーサイスらしいテクニカル・リアリズムの極致であり,読者に回避不能な現実味を抱かせる.ラムの誤算は,論理の欠陥によるものではなかった.計算は,制御可能な変数の「範囲内」では完璧だった.
物語の掉尾を飾る脅威が明かすのは,人間の知性がいかに精緻であっても,他者の無知や自然の偶発性までは支配できないという限界である.聖パトリックが追い払ったはずの蛇が,信仰という形で人々の認識を縛り続けているように,人間が排除したと信じた混沌は,常にシステムの裂け目から侵入する.1970年代の英国社会,人種差別が日常の風景であった時代背景を思えば,この悲劇はより重層的な意味を帯びるだろう.職長の暴力が差別の発露であるならば,ラムの復讐とその誤算もまた,個人では抗いきれないアイロニーの渦中にある.
++++++++++++++++++++++++++++++
Title: THERE ARE NO SNAKES IN IRELAND
Author: Frederick Forsyth
ISBN: 4042537081
© 1984 KADOKAWA
