▼『福田村事件』辻野弥生

福田村事件 -関東大震災・知られざる悲劇

 関東大震災が発生した1923年(大正12年)9月1日以後,各地で「不逞鮮人」狩りが横行するなか,9月6日,四国の香川県からやって来て千葉県の福田村に投宿していた15名の売薬行商人の一行が朝鮮人との疑いをかけられ,地元の福田村・田中村の自警団によって,ある者は鳶口で頭を割られ,ある者は手を縛られたまま利根川に放り投げられた.虐殺された者9名のうちには,6歳・4歳・2歳の幼児と妊婦も含まれていた――.

 団心理が孕む正義の暴走,日本社会に根深く潜む差別の重層性を解剖した社会学的テキスト.長年厳重なタブーとして封印されてきた暗部へ,在野の書き手が単身で切り込み歴史の空白を埋めた本書は,ミクロ・ストリア(微視的歴史学)の成功作として位置づけられるべき水準にある.福田村事件を関東大震災時のパニックによる偶発的な悲劇と矮小化せず,複数の社会的要因が致命的に交差した特異点として描き出している.幼児や妊婦を含む9名もの命を奪った加害者たちは,特異な異常者ではなく「村と家族を守る」という純粋で強烈な正義感に突き動かされた一般市民であった.

 内務省が発した「朝鮮人が暴動を起こしている」という警戒通達が,事実上の流言の公認となり,民間への暴力の委譲と自警団の乱立を引き起こした事実を見逃してはならない.被害者の命を奪った凶器「鳶口(とびぐち)」への着眼は印象的である.本来,延焼を防ぐための防火・救難の道具であった鳶口が,パニック状態において「異物」を排除する殺戮兵器へと反転した.狂気は,日常的な防衛の延長線上にあり,惨劇の直接的な引き金となったのは「言葉の壁」であった.千葉県の村民にとって,四国・香川県の讃岐弁は全く聞き慣れない異国の響きを持ち,その違和感が直ちに「不逞鮮人」という死のレッテルへと直結した.当時の自警団が通行人に強いた非科学的な言語テストは,旧約聖書「士師記」に由来するシボレス(shibboleth)の暴力性である.

 ギレアデ人が敵対するエフライム人を見破る際,ヘブライ語で「川の淀み」「麦の穂」を意味する"shibboleth"という単語を発音させた.エフライム人には"sh"の発音の習慣がなく,"sibboleth"と訛って発音したため,敵と見破られたという歴史の反復である.本書が最も困難な領域に踏み込んでいるのは,被害者一行が香川県の被差別部落出身であった事実から逃げない点だ.朝鮮人差別の渦中で虐殺された被害者が,同時に被差別部落民でもあった二重のマイノリティ性が,戦後も長期にわたって遺族の声を封殺した.被害を訴え出ることが自らの出自を世間に曝露することと同義になるという,別の差別構造が強いる沈黙――冷酷な階層構造と暴力の連鎖が凝縮されている.

 地域の濃密な人間関係に縛られるアカデミズムの歴史学者には踏み込みにくい領域を,移住者であり「平凡な主婦」を自認する著者が,足で稼ぐオーラル・ヒストリーによって丹念に掘り起こした.半世紀にわたり千葉・茨城地域の郷土史を刊行し続け,2019年に惜しまれつつ廃業した地方出版社「崙書房」が生の原稿を引き受けていなければ,事件は歴史の闇に完全に葬り去られていた可能性が高い.怒鳴られ,門前払いを食らいながらも証言を集め続けた執念は,マクロな公文書からこぼれ落ちる名もなき人々の恐怖や息遣いを救い上げる定性研究の極致,著者の「外部性(よそ者であること)」こそが内部の呪縛を解く鍵であった.

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原題: 福田村事件―関東大震災・知られざる悲劇

著者: 辻野弥生

ISBN: 4909542558

© 2023 五月書房新社