▼『男子の本懐』城山三郎

男子の本懐 (新潮文庫)

 緊縮財政と行政整理による〈金解禁〉.それは近代日本の歴史のなかでもっとも鮮明な経済政策といわれている.第一次世界大戦後の慢性的不況を脱するために,多くの困難を克服して,昭和五年一月に断行された金解禁を遂行した浜口雄幸と井上準之助.性格も境遇も正反対の二人の男が,いかにして一つの政策に生命を賭けたか,人間の生きがいとは何かを静かに問いかけた長編経済小説――.

 一次大戦後,国際金融秩序の再建が急務とされるなか,歴代内閣が先送りにしてきた金解禁を,真正面から引き受けたのが首相・浜口雄幸と,日銀総裁を経て大蔵大臣となった井上準之助である.金本位制の下では,中央銀行が通貨発行量を抑制し,金の裏付けによって円の対外的な信認を高めることが期待される.だがその先には,避けがたい代償があった.「デフレ緊縮政策を行って,命を全うした政治家は居ない」とまで言われる茨の道に,踏み込む気骨の政治家の登場を,昭和初期の世論は待望していた.金解禁を公約に掲げた浜口内閣が誕生したとき,歓迎の空気に包まれたのはそのためである.

 金の輸出禁止措置が解かれてみると,待っていたのは期待とは正反対の現実だった.生糸の対米輸出が激減して繭価は暴落し,米価も惨落する.農村は窮乏し,失業率は跳ね上がった.この結果だけを見れば,経済政策としての失策と断じられても仕方があるまい.加えて間の悪いことに,前年のウォール街「暗黒の木曜日」に端を発する世界恐慌の波が重なった.旧平価と実勢相場との乖離を見込んだ投機筋・大手銀行によるドル買い・円売りは,解禁からほどなく正貨の海外流出を招き,その規模は昭和恐慌が深まるにつれて膨らんでいく.内憂外患という言葉がこれほど当てはまる局面も少ない.それでも浜口・井上の両者は,この不況を長期的な再興に至るまでの「大出血」と捉えていた.

親任式の夜,浜口は「すでに決死だから,途中,何事か起こって中道で斃れるようなことがあっても,もとより男子として本懐である」と妻子に告げる.同じころ,井上も妻の千代子に「自分にもしものことがあったとき,後に残ったおまえが,まごつくようでは,みっともない」と土地,預金など財産目録を書き出し,関係書類を手渡す.二人には,すでに悲劇への予兆があったのだろう

 目先の痛みを引き受けてでも,日本経済の体質を根本から立て直せるという確信があったのである.タイミングが最悪だったことは否めない.世界恐慌という想定外の逆風のなかで断行された金解禁は,結果として自らの理念を裏切る形で日本経済を痛めつけることになった.それでも彼らの選択には一貫した筋が通っている.目先の輸出競争力を優先するなら新平価での解禁もありえたはずだが,二人はあえて旧平価に固執した.円の対外的な信認と,産業の合理化を促す圧力としての意味を,旧平価にこそ見出していたからである.結果の是非はともかく,そこには全身全霊を賭けた男の信念があった.彼らの信念を追い詰めていくのが,軍部の暗い影である.

 著者はこの影を描くにあたって,自身の体験を土台としている.17歳で海軍特別幹部練習生として志願入隊,特攻隊・伏龍部隊に配属されて訓練を受けるさなかに終戦を迎えた城山には,国家というものへの根深い不信があった.土壇場において,国家は個人を守ってくれるとは限らない――その認識が,浜口・井上を襲う軍部の圧力を描く筆致に,史実の再現以上の実感を与えている.浜口と井上は,後に金解禁の失策を招いた張本人として冷ややかに評されることになる.著者は,性格の対照的な二人を「浜口の静,井上の動」と呼び,互いにとって得がたい盟友であったと解釈した.政治家としての資質を補い合う友誼のあり方に,羨望に近いまなざしを向けているようにも読める.

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原題: 男子の本懐

著者: 城山三郎

ISBN: 4101133158

© 1983 新潮社