▼「風博士」坂口安吾

坂口安吾短編集①風博士、桜の森の満開の下、夜長姫と耳男: 青空で乱読

 いかなる党派にも属さない異端の短篇.厳粛な遺書の形式を滑稽な弁論で転覆させ,恣意的な比喩や詭弁の循環論法を通し,「証明」という行為への根底的な懐疑を軽快に描く――.

 和6年(1931年),坂口安吾が同人誌「文科」創刊号に発表した本作は,日本近代文学における異端の短篇として,どの思想的陣営にも属さない.満州事変と同年の世に,プロレタリア文学運動が前衛を自任していたさなか,安吾はいかなる党派的誠実をも拒絶した.後に「堕落論」で堕落を人間回復の原理として唱える精神の萌芽は,すでにこの軽快な作品に潜伏している.

 本作の奇計は遺書という様式の転覆にある.遺書とは本来,厳粛にして最終的な自己言明の場である.しかし風博士の遺書は冒頭から「諸君」への弁論として展開し,学術的弁証の擬態によってひたすら一個の禿頭を告発することに費やされる.形式が予告する厳粛と,内容が展開する滑稽との落差が,一種のバーレスク的快楽を生成する仕掛けだ.

 比喩の系列も精密に計算されている.「高尚なること樫の木の如き諸君」「賢明にして正大なること太平洋の如き諸君」「冷静なること扇風機の如き諸君」という呼びかけの連鎖は,形容詞と比喩の論理的連結を模倣しつつ,そのつながりは恣意的である.なかでも「明敏なること触鬚しょくしゅの如き諸君」という一句には特別な毒がある.「触鬚」とは蛸の触手であり,憎むべき蛸博士を非難する遺書のただなかで,読者を蛸の器官に擬することになる.

 自家撞着は語る者が自己の語りに絡め取られる露呈である.結末における「風博士は風となった」という宣言は,循環論法の戯画化として機能する.「姿見えざるは之即ち風である乎? 然り,之即ち風である.何となれば姿が見えないではない乎」というシンタックスは,不在を別の概念へ解釈転換することで説明を完了する詭弁の典型だろう.論理的詐術は笑いの装置にとどまらず,「証明」という行為そのものへの根底的な懐疑として読み得る.

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原題: 風博士

著者: 坂口安吾

ISBN: 9798341110533

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