| 41万語以上の収録語数を誇る世界最大・最高の辞書『オックスフォード英語大辞典』(OED).この壮大な編纂事業の中心にいたのは,貧困の中,独学で言語学界の第一人者となったマレー博士.そして彼には,日々手紙で用例を送ってくる謎の協力者がいた.ある日彼を訪ねたマレーはそのあまりにも意外な正体を知る……言葉の奔流に挑み続けた二人の天才の数奇な人生とは?全米で大反響を呼んだ,ノンフィクションの真髄――. |
ロンドン文献学会は,英語の全歴史的語彙を収録する辞典の構想を1857年に発表した.これが後の『オックスフォード英語辞典』(OED)の源流となる.構想を主導したのはハーバート・コールリッジ(Herbert Coleridge),フレデリック・ファーニヴァル(Frederick James Furnivall),リチャード・C・トレンチ(Richard Chenevix Trench)という3人の紳士学者であった.コールリッジは結核により1861年に30歳で死去したが,この時点では10万枚の引用票を整理し終えながら,辞典の見出し語は"abrupt"に届いたばかりに過ぎなかった.アルファベットの最初の一文字(a)の途中で事業の指揮者は失われたのである.こうして物語の二本柱が立ち上がる.
一方の柱はジェイムズ・マレー(James A.H. Murray),スコットランド南部出身の独学の言語学者にして,OEDの第三代編集長として36年間を辞典に捧げた人物.もう一方の柱は,セイロン(現スリランカ)でアメリカ人宣教師の子として生まれ,イェール大学医学部を卒業したのちに南北戦争に軍医として従軍したウィリアム・チェスター・マイナー(William Chester Minor).OED誕生史という壮大な集団的知の偉業と,マイナーという一人の狂人の個人的悲劇は,もちろん事実として連結しているが,その結合が真に有機的であるためには,マレーとマイナーの関係がOEDの言語的命題――英語の意味はその使用の証拠によってのみ担保されるという原則――を体現していなければならないだろう.しかし実際のところ,二人の関係が「証拠としての引用」という辞典の方法論と連動して論じられる場面は本書にはなく,二つの物語はテクスト上に並置されるにとどまる.
ポピュラー・ノンフィクションが伝記的人物を媒介として大きなテーマを語ろうとするときに露呈しがちな限界であり,本書もその例外ではない.二人の人物の対比は確かに鮮烈である.スコットランド国境の貧農の子として14歳で学校を去りながら独力で英語史最大の知的事業を牽引したマレーと,ニューイングランドの名望ある宣教師家系に生まれ,イェール大学医学部を卒業した才能でありながら狂気によってすべてを失ったマイナー.似た風貌(二人ともに長い白髭)を持ちながら対照的な人生を歩んだ二人が,英語という共有財産の整備という一点において結びついた事実には,物語的必然性の強度がある.だが問題は,筆者がその強度を史料の内部から掘り出すのではなく,しばしば外側から物語の文法として押しつける点にある.
歴史叙述のナラティブ化を論じたヘイドン・ホワイト(Hayden White)を援用すれば,これは歴史的素材をあらかじめ定まったジャンルの型に当て嵌めるエンプロットメントの操作である.無実の人間の死,妄想,贖罪,友情,そして言語という普遍的財産への奉仕というモチーフの連鎖,歴史的事実がディケンズ的な小説の筋書きを採用したかのような印象を読者に与える.語りの技術と資料の選択においてポピュラー・ノンフィクションとしての達成は本物だが,読者は語り手の文体の背後に,証拠不十分な推測と物語的整形が潜むことを常に意識して読まなければならない.OEDが一語一語の意味を証拠としての引用によって担保しようとしたように,本書の語りにも同じ厳密さが求められてよかったはずだ.
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Title: THE PROFESSOR AND THE MADMAN
Author: Simon Winchester
ISBN: 4150503060
© 2006 早川書房
