| 人類発祥の地,アフリカが出会った原始的神話を今に伝える民族,タイで訪れた麻薬療養所の壮絶な日々,小林秀雄,中原中也など影響を受けた文学者たちへの想い,そして日本の行く先まで……移り行く日々の中で,知の巨人が残す日本へのメッセージ.世界的な免疫学者であり,当代随一のエッセイストが病に倒れる以前に綴った珠玉の随筆集――. |
2001年,出張先の金沢で脳梗塞に倒れ,構音障害,嚥下障害,右半身麻痺という重い後遺症を負ってからも,多田富雄の執筆活動は止まらなかった.声を失い,右半身の自由も奪われた中で,なお動かせる左手の指一本でキーボードを叩き,彼は数冊の著作を世に送り出し続けた.世界の免疫学に名を刻んだこの碩学は,肉体の自由を奪われてなお,知性の運動だけは奪われることがなかった.本書は,2009年に新潮文庫として刊行されているが,書き下ろしの単行本ではなく,既発表のエッセイ群を改題・再編集して一冊に編み直したものである.
冒頭を飾る第1章「生命の木の下で」が,マリ共和国奥地のドゴン族訪問と,タイ・ラオス・ミャンマー国境の三角地帯(ゴールデン・トライアングル)における麻薬撲滅事業の視察という,地理的にも主題的にも隔たった二つの紀行を併置している事実は,編集によって事後的に与えられた意図として読むべきだろう.ゴン族が居を構えるバンディアガラの断崖は,標高差500メートル,延長150〜200キロに及ぶ崖地に約25万人が700ほどの集落を成して暮らす土地で,イスラーム化の波にも飲み込まれることなく独自の神話体系を保持してきたことで知られる.
一方の三角地帯は,かつて世界最大級のケシ栽培地帯として「黄金」の名を冠せられた土地であり,麻薬撲滅と栽培転換の取り組みが続く係争の地である.生と死,信仰と依存,辺境の異なる相貌を,多田は同じ「生命」という主題のもとに歩いて回った.そこに通底するのは,「失いたくないのは生きてる実感」という,免疫学者としての人間観であり科学観でもある.免疫系における「自己」「非自己」の境界を生涯にわたって問い続けた科学者が,晩年には病によって自らの身体の自己同一性そのものを揺さぶられ,なお生きてる実感を手放すまいとした軌跡は,学問的生涯と奇妙な相似形を描いている.
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原題: 生命の木の下で
著者: 多田富雄
ISBN: 9784101469225
© 2009 新潮社
