▼『メデイア』エウリピデス

メデイア (岩波文庫 赤106-4)

 「さあ,心よ,鬼になるのだ.なぜにためらう」.ともに死地をくぐりぬけた夫イアソンの裏切りに遭い,復讐に燃えるコルキスの王女メデイア.激しい愛を燃やし,女を踏みつけにする世を呪い,辱める者を決して許さない強烈な女性像は,古代ギリシア三大悲劇詩人の一人エウリピデスの代表作として後世に多大な影響を与えた――.

 ウリピデス(Eurīpídēs)『メデイア』が初めて上演されたのは,紀元前431年のアテナイである.三大悲劇詩人の一人に数えられながら,エウリピデスは生前ほとんど評価されなかった.劇作競技での優勝はわずか4度.『メデイア』に至っては初演で3位という惨敗を喫している.審査員たちが何を不快に感じたか,読めばすぐにわかる.メデイアは毒入りの贈り物で王女と王を殺し,最後に自分の子どもたちを手にかける.問題はこの「子殺し」がエウリピデス自身の改変だったと考えられている点だ.

 エウリピデスが意図的な子殺しを劇の中心に据えたのは創案とみられ,古代の注釈者たちもこの設定の異常さを指摘した.メデイアは子を殺す直前,長い逡巡を舞台上で演じる.「やめよ,心よ」と自分に語りかけながら,それでも手を止めない.この場面をアリストテレス(Aristotélēs)は『ニコマコス倫理学』で引用し,理性と情念の葛藤の例として論じた.この独白は上演直後から哲学的問題として受け取られていた.衝動に負けた女ではなく,考え抜いたうえで子を殺す女として描かれているのである.

 古典学者バーナード・ノックス(Bernard Knox)は,メデイアの行動原理は,アキレウスのような英雄たちと構造が同じだ,と論じている.自分の名誉を最優先し,他者の批判を拒絶し,感情を論理の中枢に置く.その論理を女性に適用したとき何が起きるか.これは怪物の話ではなく,英雄主義の論理を限界まで押し進めた人間の狂気なのだ.舞台上のメデイアはコルキス出身の異邦人,蛮族の女である.アテナイの観客にとって,ギリシア人の理性とは対極の存在として映ったはずだ.

 イアソンの言動を見ると,義務と合理性の言葉を使いながら,実質は身勝手な裏切りを重ねるだけである.理性を名乗る側こそ欺瞞に満ちている.劇の終わりにメデイアは龍車に乗り,空へ消える.裁かれず,罰されることもない.ギリシア悲劇に期待されるカタルシス,すなわち恐れと憐れみを通じた感情の解放が,ここでは完全に拒絶されている.物語は宙に浮いたまま断ち切られ,観客は不快を抱えて劇場を出たのだ.

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Title: ΜΗΔΕΙΑ

Author: Eurīpídēs

ISBN: 4003210646

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