| ヴェネツィアのサン・マルコ広場で語り手が出会った奇妙な男は,生の貧しさに比して言語が豊か過ぎると嘆く.ショーペンハウアーとニーチェの影響下,意志の不充足という苦悶を描いた掌編――. |
サン・マルコ広場に降り注ぐ秋の光の中,語り手は一人の奇妙な男と出会う.トーマス・マン(Thomas Mann)21歳の手になるこの掌編は,1896年のヴェネツィア滞在を経てローマで書かれ,兄ハインリヒ(Heinrich Mann)が書き進めていた同名作への競作として世に出た.水と光が虚像を生む都市は,後年『ヴェニスに死す』で老作家アッシェンバッハが崩れ落ちる舞台に,若きマンはすでに幻滅の種を蒔いていた.
見知らぬ男は言語の豊か過ぎることを嘆く.生の貧しさと限界に比して,途方もなく豊か過ぎると.根本的に「言語は嘘をつく」という主張が,精巧に構築された文学的言語によって発せられている.文学研究者バーバラ・ナイマイアー(Barbara Neymeyr)が「言語懐疑の修辞的演出」と呼んだとおり,語ることで語ることへの不信――矛盾がテクストに奇妙な緊張感をもたらし,後の悲喜劇「トリスタン」へと変奏されてゆく.
人生というものは,私にとってまったくのところ,いろんなぎょうさんの言葉から成り立っていました.なにしろ,そういう言葉が心中に呼び起す,あの絶大な茫漠たる予感をのけたら,私は人生についてなにひとつ知っていなかったのですからね
男の告白はまた,当時のマンがショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)とニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)に傾注していたことを透かし見せる.牧師館育ちの男が火災という「初めての体験」を経て感じた平板な落差,ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)「若きウェルテルの悩み」から引かれる疑念――人間とは,神とも称えられるあの人間とは何ものか?
これらは意志が決して充足されないという苦悶の文学的形象,ロマン主義的感受性と現実との衝突というマンの生涯的テーマの最初の定式化であった.男の独白はほぼ一方向的で,思想の密度が物語的解決を圧倒する若書きの限界を,本作は隠さない.本作が研究者の本格的な関心を集めたのは,マンのノーベル賞受賞(1929年)から数十年を経た後のことである.
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Title: ENTTÄUSCHUNG
Author: Thomas Mann
ISBN: 9784003243343
© 1979 岩波書店
