| 小池百合子が卒業していたことで注目を浴びた大学はあのサダム・フセインから,アラファト議長をはじめガリ国連事務総長,ノーベル文学賞受賞者からアルカイダ指導者まで多種多様な人材を輩出した特殊な大学であった.かつてカイロ大学に通っていた著者が現在のキャンパスを丹念に調査し,その歴史までもひもとく入魂のノンフィクション――. |
混乱の世界へようこそ――著者がカイロ大学のオリエンテーションで受けた最初の挨拶は,本書全体を貫く笑えないモチーフとなっている.イギリス占領下に産声を上げたエジプト大学(後のカイロ大学)は,設立時からナショナリズムと近代化という二つの緊張を内包していた.この緊張が大学固有の学風となった.サダム・フセイン(Saddam Hussein),ヤーセル・アラファト(Yasser Arafat),ナギーブ・マフフーズ(Naguib Mahfouz)ら多士済々の人材を生んだ,ある種の政治的溶鉱炉であった.
日本で小池百合子の卒業をめぐる真偽論争が生じたのも,この大学の磁場ゆえだろう.本書の記述でとりわけ説得力を持つのは,建学の思想家たちの系譜を追った章である.ターハ・フサイン(Taha Hussein),ハサン・バンナー(Hasan al-Banna),ジャマール・アブドゥン=ナーセル(Gamal Abdel Nasser),サイイド・クトゥブ(Sayyid Qutb).この四者がカイロ大学という共通の場を経由しながら,それぞれ世俗主義,組織イスラーム主義,汎アラブ社会主義,ジハード思想へと分岐していった過程は,近現代イスラーム世界の思想地図である.
1948年末の渡米と1951年頃の帰国を経て西洋近代文明への幻滅を深め,かつて社会主義的ナショナリズムへの共鳴を示したクトゥブが,いかにしてその立場を根底から覆すに至ったか――第4章「アラブ社会主義を否定したクトゥブ」は,この思想的転回を指摘している.しかしながら本書には看過できない限界がある.「世界最強の大学」「中東のハーバード」といった過剰な修辞は,分析の精度を損なう.カイロ大学の国際ランキングにおける実際の位置づけは,そうした称号が想起させる水準とは大きく懸け離れている.
筆者がカイロ大学のオリエンテーションを受けたとき,担当者からいわれた最初の言葉は「混乱の世界へようこそ! 」です.実際,カイロ大学のキャンパスで実体験した混乱の根は想像以上に深いものでした.そんな混乱を経験済みのカイロ大学出身者の共通点は,乱世に強いことです.…中略…カイロ大学は世界に混乱をもたらす人物と平和を求める出身者が混在しているのが特徴です.どちらの側につくにしても,両者の間では死ぬか生きるかの思想闘争が繰り返されています
体験的記述――留置所での期末試験,革命の火種としてのハシシ,眠らない街の昼寝文化――は確かに臨場感があり,読みの速度を上げる.カイロ大学とはすなわち,20世紀の混乱を生き延びたアラブ世界の縮図,その混乱を自ら輸出し続けた震源地でもあった.だが混乱が人材を鍛えるという本書の中心命題は,最終的に検証されないまま繰り返されるにとどまり,主張が論証へと昇華されることなく幕が下りる.本書は粗削りではあるが,その事実を日本語で証言した数少ない一冊である.
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原題: カイロ大学ー“闘争と平和”の混沌
著者: 浅川芳裕
ISBN: 4584125694
© 2017 ベストセラーズ
