| 著者がロシアを知る上で決定的な役割を果たした盟友,アレクサンドル・ユリエビッチ・カザコフ氏(愛称サーシャ)がキーパーソンとなり物語は動く.ロシアという巨大国家を内部から揺るがす知識人サーシャと著者の対話から,ロシアの「謎」(プーチンの戦争を支持しているロシア知識人の内在的論理)がまざまざと浮かび上がるノンフィクション.「悪の帝国」というレッテル貼りでは理解できない,ロシアという国をより深く知るための補助線となる一冊――. |
ロナルド・レーガン(Ronald Reagan)が1983年の演説でソ連に投げつけた修辞「悪の帝国」.冷戦終結から30年以上を経た今,ウクライナ侵攻後のロシアにその烙印が再び押されている.前作『自壊する帝国』(2006年)は,著者がモスクワの日本大使館に勤務した1990年代――ソ連崩壊前夜から崩壊後の混沌期――を描いたノンフィクションだった.本書はその続編にあたるが,著者自身が「人生の中間報告」と呼ぶように,知的自伝でもある.前作に続き,核心に位置するのが,アレクサンドル・ユリエビッチ・カザコフ(Aleksandr Yuryevich Kazakov),通称「サーシャ」という人物である.
ロシア正教神学の素養を持ち,ソ連末期から体制の矛盾を内側から問い続けた知識人であるサーシャは,著者のロシア理解の補助線を引いた.ふたりの対話は三位一体の乾杯の作法,バルト三国の民族的記憶,「ナショナル・ボルシェヴィズム」という危険な思想潮流へと縦横に展開する.ロシアの乾杯文化において,三杯目は必ず「女性のために」捧げるという慣習がある.これは帝政期から続く習俗であり,ソ連時代も生き延びた.著者が第一章冒頭でこの「三位一体の乾杯」に触れるのは,ロシアという国において,食卓と酒と儀礼が不可分に政治と結びついているという宣言である.第二章「失踪」は著者の個人史が前景化する.外交行嚢をめぐる謎,拘置所での体験,旧約聖書「コヘレトの言葉」(「伝道の書」)との対峙――コヘレトの「空の空,すべては空」という根本命題が,ソ連崩壊というアポカリプス的体験と共鳴している.
第三章「再会」では,サーシャが「ナショナリズムへの傾倒」を深めていく過程が記録される.プーチン(Vladimir Putin)の戦争を知識人が支持する「内在的論理」とは,西洋近代に対する文明論的オルタナティブ,正教的世界観と結びついた「聖なるロシア」のナラティブ.著者はこの論理と批判的に距離を置きながらも,内側から理解しようとする.それが本書の倫理的緊張を生んでいる.「公定ナショナリズム」という概念はベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の議論を想起させる.アンダーソンが指摘したように,近代国家は「想像の共同体」として成立するが,ロシアの場合,その想像力はオーソドクシア(正統信仰)と不可分に絡み合っている.
メドヴェージェフ(Dmitry Medvedev)が2008年の大統領就任当初に見せた近代化路線が幻に終わり,プーチン体制が公定ナショナリズムを強化していった軌跡を,サーシャとの対話を通じて肉付けする著者の散文は,神学・哲学・インテリジェンスという三つの訓練が交差する地点で生まれる独特の質感を持つ.抽象と具体が急転換し,個人的回想が突然思想史的考察に飛躍する.これを散漫と読む者もいるだろう.しかし「急ぎつつ,待つ」という第三章末尾の言葉が示すように,そのリズムは意図的だ.歴史の巨大な力学の前で,個人は急かされながらも,機を待つほかない.
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原題: それからの帝国
著者: 佐藤優
ISBN: 4334950744
© 2023 光文社
