| 老神父の死を通じ,少年の沈黙した内面にアイルランドの精神的麻痺を刻むジョイスの初期傑作.「欠落」の輪郭こそが意味を宿す,モダニズム散文の原点――. |
20世紀散文が辿るべき方向を示す,モダニズムの宣誓である.老神父の死と,それを受け止める名もなき少年の内面という,ほとんど何も起こらない物語の中に,ジェイムズ・ジョイス(James Joyce)はアイルランド社会の精神的病理を,声高には語らぬ形で刻み込んだ.初稿が1904年,農業雑誌「アイリッシュ・ホームステッド」に掲載されたことはよく知られている.署名は「スティーヴン・ディーダラス」という偽名であった.ギリシャ神話の迷宮建造者ダイダロスの名を冠した署名は,後に『若き芸術家の肖像』『ユリシーズ』の主人公として不滅の地位を得ることになる.
若き日のジョイスは,ダブリンの内側にいながら,すでに外部から自分の都市を見る視線を獲得しつつあった.物語の冒頭,少年の意識のなかで3つの言葉が繰り返し反響する.paralysis(麻痺),gnomon(ノーモン),simony(聖職売買).少年はその意味を完全には把握していない.しかし言葉の響きは,意味に先立って彼を捉える.ユークリッド幾何学における「ノーモン」とは,平行四辺形から相似形を除いた後に残るL字型の図形を指す.何かが欠落した状態の残余である.ジョイスはこの語を,イギリスの植民地支配とカトリック教会の二重の抑圧によって内部から空洞化した都市の隠喩として扱う.「麻痺」はその徴候,「聖職売買」はその腐敗の様式であろう.
言語が情動に先行する,あるいは情動が言語に先行する薄明の領域こそ,ジョイスが切り拓こうとした意識の地形である.初稿から1914年の出版に至る約10年,ジョイスは本作を徹底的に改稿した.最も重要な増補が,フリン神父が「聖杯を取り落とし,割ってしまった」という挿話と,暗い告解室でひとり笑い続けていたという証言である.キリストの血を受ける器としての聖杯の破損は,恩寵の喪失,神との契約の断絶,聖職者としての内的崩壊を意味する.読者は事後的に,すでに読んだ言葉の重みが変容していることに気づく.ジョイス的な「エピファニー」の構造である.意味は出来事の中にではなく,事後の沈黙の中に顕れる.
物語の中心が神父と少年の霊的な紐帯にあるとすれば,なぜ表題は「姉妹」なのか.ナニーとイライザの二人は,神父に誠実に仕え,丁重な葬儀を整えた善良な信者として描かれる.しかし彼女たちは,神父の闇の深さを根本的には理解していない.少年が覚える微かな居心地の悪さは,ダブリンという精神的風土との最初の,しかし決定的な亀裂である.「起こらないこと」「語られないこと」の堆積のなかに,全ての意味が宿る.農業雑誌の片隅に偽名で忍ばせた短い草稿は,10年の推敲を経て完全な「ノーモン」――何かが欠落したがゆえに,欠落の輪郭だけが残る図形――として完成した.
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Title: THE SISTERS
Author: James Joyce
ISBN: 410209203X
© 2009 新潮社
