■「オッペンハイマー」クリストファー・ノーラン

オッペンハイマー [Blu-ray]

 第二次世界大戦下,アメリカで立ち上げられた極秘プロジェクト「マンハッタン計画」.これに参加したJ・ロバート・オッペンハイマーは優秀な科学者たちを率いて世界で初となる原子爆弾の開発に成功する.しかし原爆が実戦で投下されると,その惨状を聞いたオッペンハイマーは深く苦悩するようになる.やがて冷戦がおこり,激動の時代の波に,オッペンハイマーはのまれてゆくのだった….

 才物理学者の精神的崩壊と,人類が「自らを滅ぼす力」を手に入れた不可逆の転換点.特有の時間軸の解体と再構築によって,観客はロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer)の主観へと否応なく引きずり込まれる.カラーで描かれるオッペンハイマー自身のパート「核分裂(Fission)」では,ノーランは異例な試みとして,一人称の形式でト書きを執筆した.記憶と感情の揺れを内側から追う視点は,観客をオッペンハイマーの意識の流れに同化させる.対してモノクロームで描かれるルイス・ストローズ(Lewis Lichtenstein Strauss)の公聴会パート「核融合(Fusion)」は,外部からの政治的・客観的評価として,黒と白のコントラストが陰謀の純度を際立たせる.65mmモノクローム映像をIMAXスクリーンで実現するため,クリストファー・ノーラン(Christopher Nolan)と撮影監督ホイテ・ヴァン・ホイテマ(Hoyte van Hoytema)は,コダック社に史上初となる大判モノクローム用IMAXフィルムを特注開発させた.

 全長約17.7km,重量約272kgに及ぶフィルムロールを上映するため,映写機のプラッターまで物理的に拡張している.偏執狂的なアナログへの固執は,デジタルでは生まれえない「重力」を映像に与えている.中盤の頂点「トリニティ実験」のシークエンスは,量子力学という目に見えない数式が,圧倒的な破壊力を持つ物理的現実へ転換する瞬間を,CGIを一切用いることなく表現しきった.マグネシウム・アルミニウム粉末・ガソリン・プロパンを調合し,強制遠近法を駆使して撮影された実際の爆発は,生々しく暴力的な閃光の質感をスクリーンに焼き付ける.デジタルには宿りえない物質の危険がここにある.さらに卓越しているのは,音響設計である.閃光が走った後,観客は数十秒間の完全な無音と,オッペンハイマーの荒い息遣いだけを聴かされる.

 光の速度と音の速度の物理的遅延を正確に再現したこの演出は,天才物理学者が世界の破壊者となったことを自覚する内省的な空白である.静寂を切り裂いて遅れて届く爆風の轟音が,原罪の産声として鳴り響く.キリアン・マーフィー(Cillian Murphy)の演技は,模倣を超えて憑依の領域に達している.虚ろでありながら鋭い蒼い瞳は,宇宙の神秘を覗き込むと同時に,自らがもたらす悲劇の予感に怯え続ける.マーフィーは極限の減量によってオッペンハイマーの脆く神経質なシルエットを体現した.『バガヴァッド・ギーター』を読み込み,「我は死神なり,世界の破壊者なり」という一節の精神的背景を完全に内面化した.準備の深さは,沈黙の密度として画面に滲み出ている.本作で物議を醸したのは,広島・長崎への直接投下シーンが描かれないという選択である.

 オッペンハイマーは,投下の事実を,多くの庶民と同じくラジオの音声で知る.自らが創り出したものが完全に手を離れ,軍と政治の道具となった――その圧倒的な無力感が,描写の不在によって刻まれる.ロスアラモスの戦勝祝賀会のシーン,さらに群衆の足踏みの音は軍靴の響きへと変貌し,オッペンハイマーの眼には皮膚の剥げ落ちる人々の幻影が焼き付く.実際の惨状を描くよりもはるかにグロテスクで,恐怖を深く抉る演出である.映画の結末,アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)との池のほとりでの会話に物語は回帰する.軍拡競争という政治的・歴史的連鎖反応はすでに始まっている――絶望的な悟りをもって,本作は幕を閉じる.エンドロールが終わってもなお,不吉な足踏みの音と,雨粒が水面に刻む波紋が,観客の精神の中で静かに鳴り響き続ける.

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原題: OPPENHEIMER

監督: クリストファー・ノーラン

180分/アメリカ/2023年

© 2023 Universal Pictures