▼「ヘロデア」フローベール

三つの物語/十一月 (講談社文芸文庫)

 聖書再話の形式でヘロデ王宮の権力・肉欲・宗教闘争を描く.真の主役は策謀家ヘロディアスであり,イアオカナンの首は政治的供物に過ぎない.唯物論的筆致が宗教的神秘を解体する晩年の傑作――.

 年の短篇集『三つの物語』を締めくくる本篇は,古代オリエントの乾いた空気と血の匂いに満ち,ロマン主義的な感傷を一片も残さず切り捨てる.聖書挿話の再話という外皮を纏いながら,権力と肉性が交錯する空間を史実的裏付けによって彫り上げている.オスカー・ワイルド(Oscar Wilde)が戯曲『サロメ』でサロメを預言者の唇に恋い焦がれるファム・ファタールと神話化する以前,ギュスターヴ・フローベール(Gustave Flaubert)の筆は逆の方向に向かっていた.

 執筆に際し参照したのは,故郷ルーアン大聖堂のサン・ジャン門に刻まれたティンパヌムの浮き彫りだった.フローベールは,青年時代のエジプト旅行で目撃した舞姫クチュク・アネム(Küchük Hanem)の痙攣的な舞踏の記憶をそこに重ねた.踊りの褒美を要求する場面でサロメは「お盆に載せて,あの人の頭を……」と口にした後,名前を忘れて言葉に詰まる.そこに母ヘロディアス(Herodias)が駆け寄り,「イアオカナンの頭を!」と吹き込む.真の主役は,実の娘の肉体すら生存戦略として行使する,老いた策謀家ヘロディアスである.

 死海を見下ろすマカエラス要塞という密閉された権力空間に充満する熱気を,フローベールは食卓の描写によって描いた.宴で供されるのは,豚肉,血の滴る肉,ヤマネといった,ユダヤ教の食律(カシュルート)が厳しく禁じる品々.食律の蹂躙によって,フローベールは食の衝突を帝国の支配と宗教的抵抗の地政学的衝突へとスライドさせる.ファリサイ派とサドカイ派の神学的内ゲバ,ヘロデ家の延命工作が一つの宴席に凝縮される中,イアオカナンの首は,政治的膠着を一時的に沈静化させるための供物として切断される.フローベールの父親はルーアン市立病院の外科部長を務め,幼少期のフローベールは死体解剖室のすぐ隣で育った.

 人間が肉と臓器の塊へと解体されていく過程を,幼い頃から日常的に目撃していたのである.イアオカナンが地下牢から預言の言葉を吐き出す場面でも,フローベールの筆致は彼を神聖視することなく,野獣のような物理的現象として,メスを入れるかのように描写される.宗教的な殉教物語であれば不可欠な「魂の昇天」「神の栄光」を意図的に切断し,偉大な預言者をただ「重い肉の塊」という物理的質量へと還元する.「頭部の重さ」という唯物論的事実を提示するだけで,人間の狂信,権力闘争,宗教的神秘主義のすべてを,虚無的な物質の法則の前にひれ伏せさせるのだ.

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Title: HÉRODIAS

Author: Gustave Flaubert

ISBN: 4065294215

© 2023 講談社