▼『ユーゴスラヴィア現代史』柴宜弘

ユーゴスラヴィア現代史 新版 (岩波新書)

 民族,国家,宗教,言語……独自の社会主義連邦の道を歩んできたユーゴの解体から三〇年.暴力と憎悪の連鎖が引き起こしたあの紛争は,いまだ過ぎ去らぬ重い歴史として,私たちの前に立ちはだかっている.内戦終結から現在にいたる各国の動向や,新たな秩序構築のための模索などについて大幅に加筆.ロングセラーの全面改訂版――.

 つの国境,6つの共和国,5つの民族,4つの言語,3つの宗教,2つの文字,そして一党(共産党).有名な「数え歌」は,かつてのユーゴスラヴィアという国家の輪郭を語るようでいて,根本的な不安定性を告白している.本書はその数え歌の背後に堆積した複雑な地層を丹念に掘り起こす.「ユーゴスラヴィア(Jugoslavija)」という国名は,「南(Jug)のスラヴ人の土地」を意味する人工的な造語であった.南スラヴ諸地域がハプスブルク帝国とオスマン帝国という二大帝国の支配下で,いかに異なる政治文化と経済基盤を育んだか.歴史的分断こそが,後に生じるすべての亀裂の深層をなしている.

七世紀頃バルカン地域に移動,定住した南スラヴ(スラヴの一民族集団)は,近代においてハプスブルク帝国とオスマン帝国の支配下に置かれていた.これら二帝国は広大な領域をもつ典型的な複合民族国家であり,その多民族統治の形態は本質的に類似していたといえる.ハプスブルク帝国はカトリックのオーストリア系ドイツ人が,オスマン帝国はトルコ系ムスリム(イスラム教徒)が支配層として存在していたが,ともに南スラヴを含む多数の民族を抱えこんでいたため,帝国の維持はきわめて困難な問題であった

 19世紀のイリュリア運動に端を発する南スラヴ統一構想は,外部帝国からの自立を夢見たインテリゲンツィアのロマンティシズムに駆動され,熱量と現実との落差が,ユーゴスラヴィアを最初から危うい綱渡りの上に立たせた.パリ講和体制下で成立した擬制の国民国家において,大セルビア主義とクロアチアの連邦主義はついに真の接合を果たすことなく,矛盾を未消化のまま抱え込んでいた.冷戦下において最も自由を謳歌した社会主義国民という自己像は,確かにひとつの現実であった.しかし本書の視点は,繁栄の奥に潜む時限爆弾を見逃さない.

 1974年憲法による極端な分権化は各共和国の「国民国家化」を促進し,連邦の存在根拠を静かに空洞化させていた.1984年,サラエヴォは冬季五輪の祭典を世界に向けて開幕させた.多民族共生の美しい光景を演じたその同じ街が,わずか8年後,現代戦史上でも類を見ない長期かつ凄惨な包囲戦の舞台となる.この落差の前に,人は言葉を失う.本書は,スロボダン・ミロシェヴィッチ(Слободан Милошевић),フラニョ・トゥジマン(Franjo Tuđman)といった政治指導者によるエスノ・ナショナリズムの意図的な扇動を見据える.

 ヨシップ・ブロズ・チトー(Јосип Броз Тито)亡き後の権力空白,深刻な経済危機,それを政治資源として換金したポピュリストたちの台頭――この連鎖を感傷なく記述する.スロヴェニアとクロアチアがいち早くEU統合を果たし「ヨーロッパ」への帰還を宣言する一方,ボスニア,セルビア,コソボは経済的・政治的停滞のなかで「バルカン」として取り残されたままだ.21世紀のEU外部国境線は,奇妙なほどハプスブルク帝国とオスマン帝国のかつての境界と重なっている.数百年前の帝国の輪郭が,現代ヨーロッパの包摂と排除の境界線として再現されているのだ.

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原題: ユーゴスラヴィア現代史

著者: 柴宜弘

ISBN: 9784004318934

© 2021 岩波書店