▼『陰翳礼讃』谷崎潤一郎

陰翳礼讃 (中公文庫 た 30-27)

 人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時,あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ,ほんとうはそう旨くない羊羹でも,味に異様な深みが添わるように思う.(本文より)……西洋との本質的な相違に眼を配り,かげや隈の内に日本的な美の本質を見る――.

 々たる陽が沈み,夜の帳が下りてくる.静まり返る空間を見出すことは,現代においてはもはや難しい.しかし陰翳の厚みと耽美は,古来より確かに存在してきた.騒音と人工の光彩によって今や息を潜めた,翳の領域.「経済往来」昭和8年12月号・9年1月号に掲載された本書は,光と闇の均衡がはらむ神秘を,いかに典雅な大和の気質が貴んできたかを気づかせる.

われらといえども少年のころは日の目の届かぬ茶の間や書院の床の間の奥を視つめると,云い知れぬ怖れと寒けを覚えたものである.しかもその神秘の鍵は何処にあるのか.種明かしをすれば,畢竟それは陰翳の魔法であって,もし隅々に作られている蔭を追い除けてしまったら,忽焉としてその床の間はただの空白に帰するのである.われらの祖先の天才は,虚無の空間を任意に遮蔽して自ら生ずる陰翳の世界に,いかなる壁画や装飾にも優る幽玄味を持たせたのである

 食器,食物,照明,建築,化粧,紙,能,歌舞伎の衣装.それら一見雑多な事物を貫く本質を,具象の観察から美の原理へと遡行する筆法で論じた,比類なき美文.とりわけ椀の描写は白眉である.蓋を取って口に運ぶまでの刹那,暗い奥底に容器の色と見分けがたい液体が音もなく澱んでいるのを眺める――視覚の及ばぬ中身を,触覚・嗅覚・温度の複合によって感受する,その瞬間美の密やかさ.

漆器と云うと,野暮くさい,雅味のないものにされてしまっているが,それは一つには,採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないであろうか.事実,「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていゝ.…中略…まことにそれは,畳の上に幾すじもの小川が流れ,池水が湛えられて如く,一つの灯影を此処彼処に捉えて,細く,かそけく,ちらゝと伝えながら,夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す

 感覚の余白にこそ美が宿り,繊細な安息の愉しみを日常に溶け込ませていた時代の,静謐な贅といえよう.本書は和洋の優劣を裁断しない.西洋との比較は,あくまで失われつつある審美感覚を照射するための鏡である.帰着するところは,明るすぎる宵の風情のなさへの嘆きであり,明暗の均衡に陰翳の美を見出しうる感受性の復権への訴えである.

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原題: 陰翳礼讃

著者: 谷崎潤一郎

ISBN: 4122024137

© 1995 中央公論新社