▼『バイオスフィア実験生活』アビゲイル・アリング,マーク・ネルソン

 これは20世紀の「ノアの方舟航海記」である.バイオスフィア(生命圏)とは,バクテリアから人間にいたるまで,あらゆる生命体が太陽光と大気と水を利用して,死と再生を繰り返している閉鎖生態系である.地球というバイオスフィア1に住む人類のこれからの生き方を探るために,ガラスの建物の中に密閉されたバイオスフィア2が,アリゾナの砂漠に作られた.その中で男女8人の科学者が,水や食料はもとより,空気すらもリサイクルしながら,外部からいっさいの補給なしで暮らした.クルー自らが書いた,2年間におよぶその実験生活の臨場感あふれるレポート――.

 つの顔をもつ科学記録である.1991年から1993年にかけて実施された前代未聞の閉鎖生態系実験「バイオスフィア2」を内側から記録した一次資料,他方では,当事者による弁明書である.この二重性を正面から引き受けることが,本書を正当に評価する上での出発点となるだろう.最も重要なものは,様々な「誤算」の記録である.実験内部の酸素濃度は実験期間中に通常の21%から14.2%(標高4,000メートル相当)にまで落ち込んだ.メディアはこれを即座に「失敗の証拠」と断じたが,真の原因はより複雑であった.過剰な有機物を含む土壌の中で微生物が異常繁殖して酸素を大量消費したことに加え,建設資材の未硬化コンクリートが排出された二酸化炭素を吸収(隠蔽)してしまったのである.

 生物的・化学的な想定外の連鎖反応が,酸素循環を致命的に攪乱していた.同様に興味深いのは,日射による内部気圧の変動でガラスパネルが破損するのを防ぐために設置された,巨大な地下気圧調整ドーム「ラング(肺)」の存在である.機械的インフラなしには有機的な生態系が自立し得なかった事実は,完全なる自然を模倣しようとした閉鎖実験が,人工的介入の不可避性を明らかにするという皮肉な結果をもたらした.生態系のバランス崩壊は生物相にも顕著に表れた.花粉を運ぶミツバチが早々に死滅した一方,ゴキブリや「クレイジーアント(狂気アリ)」と呼ばれる外来アリ,植物の害虫が異常繁殖したのである.これらの事象は,生態系をモジュール化して人工的に再現する試みがいかに無謀であったかを示している.

 誤算は,地球(バイオスフィア1)の複雑性を証明する実験結果として読みうる.その視点の転換が,本書を顛末記以上のものにしている.科学的知見と並んで本書が提供するのは,閉鎖環境が人間にもたらす変容である.農作物の不作により,8人のバイオノート(実験参加者)は1日平均1,750kcalという慢性的カロリー制限下に置かれ,全員が体重の10〜20%を失いながらも血圧やコレステロール値の改善が確認された.より深刻な問題は,人間関係の崩壊であった.実験後半,クルー8名は「外部介入を容認する現実派」「完全閉鎖の理念を堅持する原理主義派」に4対4で分裂した.対立は「何のためにここにいるのか」という目的論上の亀裂であり,閉鎖空間が人間の価値観の差を極限まで顕在化させていた.

 批評的に見れば,本書を純粋に中立的な科学記録として読むことはできない.著者らは実験の発案者ジョン・P・アレン(John P. Allen)率いるエコ・コミュニティ「シナージア・ランチ」の出身で,ヒッピー的なユートピア思想に対する社会的批判への強い反発が文面に滲んでいる.1993年1月,酸素濃度が危険域に達したため,外部から酸素が注入された.これは実験の根本的前提「完全閉鎖」を破る措置というほかはないが,都合の悪いデータの扱いを見る限り,自己正当化は隠しきれていない.バイオスフィア2は,人類の傲慢さと自然の複雑性が正面から衝突した場所だった.閉鎖空間で自給自足の生態系を維持しようとした最初の本格的な挑戦であり,完璧な密室生態系というユートピア思想が現実の複雑性の前に崩壊する過程を描いた証言として,何を明らかにし,何が打ち砕かれたかの記録として本書は意義深い.

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Title: LIFE UNDER GLASS - THE INSIDE STORY OF BIOSPHERE 2

Author: Abigail Alling, Mark Nelson

ISBN: 4062571471

© 1996 講談社