| すべてはロックミュージシャンの逮捕から始まった……かれらの問題は自分たちの問題だと共鳴した劇作家は,全体主義の権力のあり様を分析し,「真実の生」,「もう一つの文化」の意義を説く.このエッセイは,冷戦体制下の東欧で地下出版の形で広く読まれただけでなく,今なおその影響力はとどまることを知らない.形骸化した官僚制度,技術文明の危機を訴える本書は,私たち一人ひとりに「今,ここ」で何をすべきか,と問いかける――. |
イデオロギーはもはや熱狂の対象ではなく,日常を円滑に回すための「儀式」へと変貌している――そのような洞察から,本書の思考は出発する.ヴァーツラフ・ハヴェル(Václav Havel)は,1970年代当時のチェコスロバキアの体制を独裁とは呼ばず,ポスト全体主義(Post-totalitarian)と定義した.このシステムの恐ろしさは,システム自体が自己目的化し,市民一人ひとりが無意識のうちにその維持へと加担する歯車となっていく点にある.本作の中核をなす思考実験は,「青果店の店長」という極めて日常的な形象を通じてなされる.
店長は,ショーウィンドウの玉ねぎや人参の間に「万国の労働者よ,団結せよ!」というスローガンを掲げる.店長がマルクス主義に熱狂しているわけではない.では,なぜ掲げるのか.スローガンは本来の言語的意味を完全に失い,「私はルールを守る人間だ,だから私を平穏に暮らさせてくれ」という自己保身のアリバイにすぎない.自己欺瞞の連鎖という不気味な社会力学――誰も本気では信じていない嘘を,全員が信じているかのように振る舞うこと――で,社会全体を覆う「嘘のパノラマ」が完成する.被害者が同時に加害者(体制の維持者)となる仕組みにおいて,支配は分散化され,責任の所在は極めて曖昧になる.
暴力装置を必要としないこの支配の精巧さこそ,ハヴェルが「ポスト」全体主義と形容した所以である.イデオロギーの言葉が現実を覆い隠し,記号化する分析は,劇作家――不条理演劇の実践家――としてのハヴェルの眼差しを色濃く帯びている.では,この強固で目に見えないシステムをどう打ち破るのか.ハヴェルが提示する答えは,真実の内に生きる(Život v pravdě)という,きわめて実存的な選択である.先述の青果店の店長が,ある日突然「自分は信じていないから」という理由でスローガンを掲げるのをやめ,自分が本当に思っていることだけを口にする.ただそれだけで,「嘘のパノラマ」に致命的な亀裂が入る.
全員の同調を前提として成立しているシステムにとって,たった一つの純粋な真実は,体制全体の虚構性を暴露する決定的な脅威となる.この長大なエッセイの原稿はチェコスロバキアとポーランドの反体制派による共同論文集のために書かれ,厳しい検閲のもとサミズダート(地下出版)という形で流通した.タイプライターに何枚ものカーボン紙を挟んで手作業で複製され,人々の間を秘密裏に駆け巡ったこの思想は,活版印刷という「力」を持たない物理的な力なき者たちのネットワークによって文字通り拡散し,後のビロード革命の精神的支柱を築いた.
++++++++++++++++++++++++++++++
Title: MOC BEZMOCNÝCH
Author: Václav Havel
ISBN: 440903104X
© 2019 人文書院
