▼『偉大なる王』ニコライ・A・バイコフ

偉大なる王 (中公文庫 C 35)

 誇り高い一頭のシベリア虎の物語.額に王,首すじに大の字の模様をもつ,生まれながらの森林の大王「王」.タラノキやブドウの生い茂るヤブの中で生まれ落ちてから,威厳と力と英知を備えた王者になるまでの一生を,克明に描く長篇.狩を覚えながらの日々の成長.アナグマ,イノシシ,クマ,アカシカ,そして人間との熾烈な戦い……季節ごとに変化する森林の美しい描写とともに,野生動物の生態を活写する,動物文学の最高傑作――.

 州の針葉樹林に生息するシベリアトラ(アムールトラ)は,最大で全長370センチ,体重300キロに及ぶ威風を備える現存最大の亜種である.額に"王",首筋に"大"の字を紋様された「王」は,生まれながらにその座につくことを宿命づけられた.漢字文化圏ではトラの額の斑紋を「王」の字に見立てる伝統があり,それが虎を「獣の王」とする東洋的神話体系の根拠となってきた.

人間に敵意を持って現れる自然の力のなかでも,特に残忍で,恐ろしい二,三の肉食獣のうしろに,神の威光がある――と,無知な古代人は考えた

 ニコライ・A・バイコフ(Nikolai Apollonovich Baikov)は,詩的修辞として,記号を作品の主題的骨格に据えている.すなわち「王」とは人間が事後的に与えた称号ではなく,自然の秩序が刻印した紋章である.バイコフは,ペテルブルグ科学アカデミーの命を受け満州の自然生態を実地調査した博物学者であった.フィールドノートの精度と小説的想像力が拮抗する緊張感に溢れ,大森林を蹂躙する王の生態活写がなされている.

 ロシア革命後,バイコフは満州,オーストラリアへと流転の亡命生活を強いられた.喪失した祖国への郷愁を,人間社会の告発へと転化させず,自然界の不変の秩序――捕食と被食,支配と服従――の描写へと昇華させている.大森林に君臨する王を頂点とするヒエラルキーと生死の闘争を,政治的激動を生き延びた亡命者が,硬質な文体で余すところなく描いている.

 文体はドストエフスキー的な内省とは対極にあり,自然描写の透明な即物性に近い.バイコフの筆はいかなる感傷も排して,弱肉強食の論理を道徳的判断の外部に置いている.王は残酷でも崇高でもない.ただ,あるべき姿として存在する.現在,野生のシベリアトラの個体数は500頭前後に過ぎず,本書が書かれた時代の面影は急速に失われつつある.バイコフが記録した満州の生態系は,今やフィクションと自然誌の中間に位置する,かけがえのない証言文学でもある.

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Title: VELIKII WAN

Author: Nikolai Apollonovich Baikov

ISBN: 4122016223

© 1989 中央公論社