▼「異域の人」井上靖

異域の人,幽鬼: 井上靖歴史小説集 (講談社文芸文庫 いH 3)

 後漢の班超は,筆を折り武将を志し,洛陽から1万里の西域へ赴く.30年の苛烈な辺境生活は彼を中華の理から切り離し,皮膚も眼も現地の胡人へと変えた.砂漠と一体化した魂の実存的な孤独を描く――.

 個の人間が「異郷」という絶対的な他者と対峙し,やがてそれに飲み込まれていく過程を,冷徹かつ詩的な筆致で描破した名篇.後漢の将軍・班超は,兄に『漢書』の主編者・班固,妹に女性史官・班昭を持つ,文字と記録に仕える最高の知識階級の家系に生まれた.しかし「男子たるもの,異国で功名を立てるべきだ」と筆を折り,武将を志す――いわゆる「投筆従戎」の故事である.井上靖はこの選択を,英雄的転身から,自己存在を賭けた逃避と探求の起点と捉え直した.

 洛陽の中心から1万里へだてた辺境への赴任は,中心からの永遠の離脱を意味していた.30年以上に及ぶ西域の苛烈な日々の中で,班超は中華の将軍としてのアイデンティティを徐々に喪失し,鄯善国における匈奴の使者への奇襲をはじめ,血と力と謀略に満ちた西域の流儀へ深く身を投じる.成功の過程で,自身は「中華の理」から切り離されていく.井上は作中で,班超が年月を経て皮膚と眼の色を変え,まるで現地の胡人のような風貌を持つ「老胡人」へと化していく様を克明に描いた.風土という圧倒的な他者が,個人の根源的な域にまで侵食していく,恐怖と畏敬の入り混じった環境同化である.

 かくして異域に赴いた漢民族の人は,もはや異域の属性へと作り変えられた人間という意味を内包する.晩年,老いた班超は「生きて玉門関を入ることを願うのみ」と上奏し,妹・班昭の悲痛な嘆願書も手伝って,ついに帰国を許される.しかし,班超は洛陽に帰還してわずかひと月余りで世を去った.史実を,井上は過酷な辺境に耐えた肉体と魂がすでに西域の乾いた砂漠と一体化しており,中華の湿潤な空気の中ではもはや呼吸すらできなかったという,精神的な死として描き出す.

 班超の肉体は洛陽へ戻った.しかし魂魄は,永遠に砂漠の砂礫の中に置き去りにされていた.物語の深みを支えているのが,漢文脈の格調を湛えた文体である.感情を排した俯瞰視点を貫くことによって,班超の抱える底知れぬ孤独と巨大な空虚が,砂漠の蜃気楼のように読者の前に立ち上がる.西域の広大な空間と一個人の微小な命との対比が,抑制された筆致によって極限まで圧縮され,静かな感動を呼ぶ.孤独な漂泊者としての生身の魂を見事に掬い上げた,実存主義的文学と呼ぶにふさわしい一篇である.

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原題: 異域の人

著者: 井上靖

ISBN: 4061983601

© 2004 講談社