▼『火の起原の神話』J.G.フレイザー

火の起原の神話 (ちくま学芸文庫)

 人類はいかにして火を手に入れたのか.世界のあらゆる地域,民族に伝えられた神話や伝説のなかに,文明への一歩を特徴づけるこの神秘への,人類の飽くなき問いが刻印されている.地底の神々や先祖と戦い,隠された火の秘密を盗み出すポリネシアの大胆な若者たち.火を起こす技を秘めた男を惑わして,秘密を暴くアフリカの王女.大神ゼウスから火を奪った罰として,30年間,鷲に臓腑をえぐられ続けたプロメテウスをめぐるギリシア神話.『金枝篇』で名高い人類学者・フレイザーが,壮大な神話の数々を通して,太古の人間の精神に迫る――.

 理的な「火」の制御と,精神的な「火」の物語化という,二つの営為が織りなす重層的な人類史である.イスラエル北部のゲシャー・ベノット・ヤーコブ遺跡で発見された約79万年前の痕跡――ホモ・エレクトスによる加熱調理の形跡――物質的証拠に対し,比較神話学という知の地平から光を投じたのは,ケンブリッジの巨人ジェームズ・フレイザー(James George Frazer)である.フレイザーは,近代人類学黎明期における「アームチェアー・アンソロポロジスト(安楽椅子人類学者)」であった.トリニティ・カレッジに籠もり,生涯を通じてフィールドワークを拒絶したフレイザーは,ロンドンへの出張すら避けたという.だが,その身体的制約とは裏腹に,知的探求は全大陸を横断した.フィールドワーク忌避は,現場の個別性に惑わされず,膨大なテキストから普遍的法則を抽出する独自の科学的信条に基づいている.

神話の,いわゆる心理学的価値はともかくとしても,火の起原に関するかなりな数の物語によって,人間がこの元素の使用や,それを作りだす方法を,いかにして知るようになったかを説明することはできる.この点に関する人類の伝説を数多く集め,比較することは価値あることだと思う.一つには,原始未開民族の状況が概略的に説明できるし,一つには,今とりあげているこの特殊な問題の解決に役立つと思えるからである

 世界中の官吏や宣教師へ送付した質問票の回答を統合することで,一歩も動かずに地球規模の知の地図を描出した.タスマニアの密林からシベリアの凍土まで,渉猟した文献群は,人類共通の「思考の型」を彫る壮大なデータベースとなったのである.フレイザーは,世界各地に散らばる火の起源神話を,鮮やかな論理的類型へと整理した.まず動物媒介説(ズーモーフィズム)においては,人間社会への火の伝播を担うのは,しばしば鳥類や哺乳類である.オーストラリア先住民の神話におけるカラスやコカトゥー,北米先住民におけるトリックスターとしてのコヨーテ.これらは火が本来「自然界の秘密」であり,媒介者を介してのみ人間界へもたらされたという,自然への畏怖と謙虚な認識である.また「摩擦と生殖のシンボリズム」において,フレイザーは,火鑽(ひき)り具の構造――軸棒(陽)と受け皿(陰)――が多くの民族において雌雄に見立てられることに注目した.

 火を熾す行為は神話的には生命創造と同一視され,このメタファーが後の宗教儀礼における聖火維持の伝統へと連なっていく.さらにフレイザーは,火の獲得経路をその象徴的意味とともに分類した.雷や太陽の欠片として火がもたらされる「天降説」は,超自然的恩寵と不可抗力的な畏怖を象徴し,地下に住む老婆や神が守る火を扱う「地底・火山説」は,潜在意識の奥底にある母性的資源を暗示する.プロメテウスに代表される「盗取説」は,権威への反逆と技術革新への代償という心理的メタファーを内包する.火山や地底から火を得る伝説が,ポリネシアのマウイ神話など例外を除き少数派である事実は示唆に富む.人類にとって火は,常に遠方から,知恵と勇気をもって獲得すべき外来の力であったのだ.フレイザーが渉猟した諸地域のなかでも,北欧叙事詩は特筆すべき詩的リアリズムを湛えている.ジャン・シベリウス(Jean Sibelius)が1902年に発表した合唱幻想曲《火の起源》は,叙事詩『カレワラ』を典拠とする.

 闇の国ポホヨラの女主人ロウヒが太陽と月を隠した際,雷神ウッコが放った火花を「大気の乙女」が取りこぼし,地上に大火災をもたらす.このプロットは,火が神の手を離れ,人間の制御能力を試す試練として現れた.当時,ロシアの圧政下にあったフィンランドにおいて,この「新しい火」の物語は,民族自決とアイデンティティ回復の象徴という政治的熱量をも帯びていた.フレイザーの「安楽椅子」からの視線は,断片的な伝説の中に,人類の意識下で絶えずゆらめく通奏低音を聴き取った.火の起源神話は,神秘的かつ破壊的なエネルギーをいかに文化的な道具へと変容させたかという,人類の自己超越の記録である.没個性的に反復される数多の物語は,フレイザーの冷徹かつ膨大な比較研究によって,人類という種が共有する光と熱への根源的渇望を,論理的に洗練された体系として現代に伝えている.火の獲得の軌跡は,フレイザーの主著『金枝篇』とも共鳴し,後世の宗教における「生贄」「浄化」の儀礼へといかに昇華されたかという,さらなる思想史的探究へと誘うだろう.

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Title: MYTHS OF THE ORIGIN OF FIRE

Author: James George Frazer

ISBN: 9784480092687

© 2009 筑摩書房