| 静かな悪意と欲望が結託し,出世を価値基準とする組織人の思考が犯罪へと傾斜する過程を描く社会心理小説.合理性への過信が招く無音の転落――. |
有能でも無能でもなく,特別に邪悪でもない.ただ企業組織の中で上昇を人生の価値基準として内面化し,世界を自然に上下関係の比喩で把握する.秋場文作の人物造形は,清張文学の典型的な反英雄像に属する.松本清張はこの時期,官僚や記者,技術者など組織人を主人公に据えた作品を集中的に書いており,本作もその系譜上にある.岩戸景気のただ中,日本社会全体が「努力すれば報われる」という上昇神話に包まれていた時期,清張は『ゼロの焦点』『点と線』で社会派推理小説の地位を確立しつつあった.
本作は推理小説の形式を借りた社会心理小説である.清張自身が後年述べているように,本作の核心は女の心理の変化を読みとれなかった自信過剰にある.利江は策略を巡らすわけではなく,感情に忠実であろうとするがゆえに物語を不可逆的な方向へ押し流す.静かな悪意と欲望が結託する瞬間を精密に切り取った短編である.物語に殺人や派手な陰謀は前景化しないが,読後に残る感触は重く,冷たい.
本作は,これまで8度もテレビドラマ化されている.時代ごとに設定や演出は変化してきたが,組織の中での成功を欲する男が,自ら作り出した論理に絡め取られる骨格は一貫している.映像化作品の多くがサスペンス性を強調する一方,原作はむしろ静的であり,読者に思考の傾斜を追体験させる.本作が主題化するのは,犯罪へ至る思考の勾配だからである.出世を合理的に追求し,他者を手段として考え,感情を制御可能だと信じる――それらは社会生活においてしばしば肯定される態度であろう.しかし松本清張は,それらが一定の角度を超えたとき,人は音もなく転落することを示した.
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原題: 危険な斜面
著者: 松本清張
ISBN: 4167697122
© 2007 文藝春秋
