▼『アメリカ下層教育現場』林壮一

アメリカ下層教育現場 (光文社新書)

 アメリカ在住ノンフィクションライターである著者は,恩師に頼み込まれ,高校の教壇に立つことになった.担当科目は「JAPANESE CULTURE(日本文化)」.前任者は,生徒たちのあまりのレベルの低さに愕然とし,1カ月も経たないうちに逃げ出していた.そこは,市内で最も学力の低い子供たちが集まる学校だった.赴任第1日目,著者が目にした光景は,予想を遙かに超えていた.貧困,崩壊家庭と,絶望的環境のなかで希望を見出せない子供たちに,著者は全力で向かい合っていくが……子を持つ全ての親,教育関係者必読のノンフィクション――.

 ネソタ州での法成立(1991年)を皮切りに全米へ広がったチャーター・スクール運動.その第1号校がセントポールに誕生して以来,公設民営の教育実験は,画一的な公立学校制度に対するオルタナティブとして期待を背負ってきた.教員免許の有無に縛られず,独自の教育カリキュラムを編成できる制度は,本来,教育の多様性と研究開発を担う最前線であるはずだった.本書が描くのは,カジノ産業を背骨とするネヴァダ州リノに位置する「レインシャドウ・コミュニティ・チャーター・スクール」の凄絶な現実である.

トイレに行きたい」と数人が立ち上がる.ポケットからMP3プレイヤーを取り出して聴き始める者,名にも告げずに教室から出て行く者,眠り出す者,クラスメイトの髪を熱心に梳かし始める女子学生,ハッキーサック(小さな布の弾を地面に落とさないように蹴りあう遊び)に夢中になり出す男子5人,UNOを机の上に並べる女子3名......と目を疑う光景が広がっていった.子供たちの倫理観は,私の予想を遙かに超えていた

 進学率1%未満――社会の周縁へと追いやられた生徒たちが集う最底辺高校で,著者が担当したのは"JAPANESE CULTURE"という講座だった.勉強に背を向けた生徒たちのために用意したビデオ教材を前に,衝撃を受ける.生徒たちが示す拒絶と無気力は,学力不足では片付けられない根深い絶望を孕んでいた.かつてポール・ウィリス(Paul Willis)は,イギリスのセカンダリー・モダン・スクールにおける労働者階級の若者たちを分析し,彼らが自ら「落ちこぼれ」(Lads)としてのアイデンティティを形成し,学校文化に対抗する様を活写した.

 ウィリスはそこに,資本主義社会における階級文化の再生産と,それに対する微かな抵抗の光を見た.しかし,本書が描き出すリノの教室には,カルチュラル・スタディーズ的な「対抗文化」の逞しさすら希薄である.ネヴァダ州教育局から生徒1人につき年間5,300ドルの公金が投じられ,授業料は免除されている.潤沢とは言い難いこの予算が,彼らの未来を保障することはない.チャーター・スクールという枠組みさえも,一度ドロップアウトした子供たちに真の意味での再生の道を提供できず,アメリカ社会の巨大な教育格差の溝を埋めるには至っていない.

高校に通わなくても建設労働,車の修理,清掃業などのブルーカラーや,ファーストフード店等の仕事には就ける.遊ぶ金を稼ぐことくらい,訳ないんだよ.だから生徒たちは,教育を受けることの価値が理解できないんだ

 統計データは残酷だ.チャーター・スクールを卒業したとしても,彼らの生涯平均所得は140万ドルに満たず,大学卒業者の約0.56倍に留まる.ウィリスが形容したように,彼らは劣位の職を「ただ仕方なく落穂拾い」するかのような人生へと規定されていく.この決定論的な構造の中で,瑞々しいはずの人間の自尊心が無残に埋もれていく.本書が射抜く鋭い視点は,学校現場に蔓延する「諦観」の伝染であろう.生徒たちは,自らの劣等感を内面化する過程で,非熟練労働者へと続く道を自ら舗装してしまう.2008年の刊行当時,全米のチャーター・スクールの約6割で,入学を待つウェイティング・リストには平均198人もの名が連なっていたという.

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原題: アメリカ下層教育現場

著者: 林壮一

ISBN: 9784334034337

© 2008 光文社