▼「一九八三年八月二十五日」ホルヘ・ルイス・ボルヘス

シェイクスピアの記憶 (岩波文庫 赤792-10)

 ホテルの一室で若きボルヘスが未来の老いた自分と対話し,時間の迷宮が終局へ収束する運命と自己同一性の揺らぎ,人生が不可避の死へ回帰することを静かに示す物語.仮の領域で存在の境界も問う終幕を予感させる――.

 テルの19号室で,主人公ボルヘスは84歳になった自分自身と遭遇する.劇的に示されるのは未来――あるいは不可避の終局――を認識した自己との対面である.だが,この対話は予想外に淡白で,死は,すでに約束されていた沈黙として立ち塞がる.ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges)が現実にもホテル滞在を深く愛好していたこと,アドロゲのホテル・ラス・デリシアスが少年期の記憶と結び付いていたことは,存在論的に重要である.

 ホテルとはどこにも属さない「仮の領域」であり,自己の境界が揺らぐ場である.作中の日付「八月二十五日」はボルヘスの誕生日の直後でありウルグアイの独立記念日でもある.アルゼンチンとウルグアイは同じスペイン語圏でもあり,文化的に極めて近い.短編集「アレフ」などに,ウルグアイ川沿岸の街や風景が登場する.ボルヘス文学は,時間を循環・分岐する迷宮として構想し,「伝奇集」から「分岐する庭の小径」まで,時間と人生は無数の可能性として並存してきた.

 壮大な迷宮が極限的に圧縮され,宇宙規模の構造がホテルの一室へと縮小,選択肢の無限性は選択不可能性へと反転する.部屋から外へ出る場面で読者は既に理解している.外へ出たボルヘスもやがてあのベッドに横たわること――出口は存在せず,すべての道は同一の場所へ回帰するのだ.自己の分裂は人生の終末を確認する行為へと変質する.ボルヘスが生涯自殺に否定的であったにもかかわらず,作品内では自殺が一つの可能性として浮上する点も,物語としての人生の終わり方をめぐる思考実験として読むべきだろうか.

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Title: VEINTICINCO DE AGOSTO DE 1983

Author: Jorge Luis Borges

ISBN: 4003770145

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