| 元禄期の名優坂田藤十郎の偽りの恋を描いた『藤十郎の恋』,耶馬渓にまつわる伝説を素材に,仇討ちをその非人間性のゆえに否定した『恩讐の彼方に』,ほか『忠直卿行状記』『入れ札』『俊寛』など,初期の作品中,歴史物の佳作10編を収める.著者は創作によって封建性の打破に努めたが,博覧多読の収穫である題材の広さと異色あるテーマはその作風の大きな特色をなしている――. |
日本近代文学史において,菊池寛は作家としての評価以上に,文壇の偉大なるオルガナイザーとしてその名を刻んできた.彼が創設した芥川龍之介賞・直木三十五賞は,今なお国内最高権威の文学賞として君臨し,新人作家の登竜門として影響力を持ち続けている.文藝春秋社の創設,日本文芸家協会の設立など,その辣腕ぶりはまさに「文壇の父」と呼ぶにふさわしい.興味深いことに,彼に近い人々は,菊池は本来,プロデュース業には不向きな性格であったと述懐している.
実業家,劇作家,そして小説家――多面的な顔を持つ菊池の文学的真髄は初期の短篇佳作にこそ凝縮されている.作品群を貫くのは,極めて画然とした主題性,人間の自意識が惹き起こす悲劇的なアイロニーである.大正期,志賀直哉に代表される白樺派の理想主義,内面へと埋没する「私小説」が主流を占める中,菊池は徹底して構造の明快さと主題の提示を重視した.近代批評の祖・小林秀雄は,菊池の初期短篇に対し,文学青年を惹きつける「何物か」が欠けていると指摘した.その「何物か」とは,おそらく言語化を拒む魂の震え,論理では割り切れない生の混沌を指すのだろう.
菊池の作品に読者は納得(ロジック)は見出すが,魂を揺さぶる陶酔(エクスタシス)を見出すことは難しかったのかもしれない.しかし,その不器用さによって,リアリズムの手法を用いながら,封建的な設定を換骨奪胎し,普遍的な人間心理を解剖してみせた.菊池にとって小説とは,自己の芸術性を誇示する聖域ではない.読者と「共通の人生観」を分かち合うためのメディアであった.
菊池寛が遺した諸篇を読み解くとき,われわれが目にするのは,人生を俯瞰する「知」と,ままならぬ運命に翻弄される人間への「情」が織りなす絶妙な均衡(ポアズ)である.菊池は自らを「生活者」として律し,文学を特権的な雲上から,市井の人々が共有できる人生の智慧へと引き降ろす.その過程で失われた純文学的神秘性はあったとしても,本書に収められた「恩讐」「自尊心」「芸道」「形」といったテーマは,普遍的な説得力を放ち続けている.その丹念な設計から滲み出る人間的な哀歓は,今なお色褪せることがない.
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原題: 藤十郎の恋・恩讐の彼方に
著者: 菊池寛
ISBN: 410102801X
© 1999 新潮社
