▼『社会認識の歩み』内田義彦

社会認識の歩み (岩波新書)

 日本の社会科学の「高度成長」はめざましいが,一般の人にはますますよそよそしいものになっていくのは何故か.マキャヴェリ,ホッブス,スミス,ルソーなど,社会科学史上の結節点に位置する先人たちの知的遺産を読み解く試みを通して,一人一人が自らのうちにどのように社会科学的認識の芽を育てていくべきか,読者とともに模索する――.

 会科学的認識の黎明は,人間が「神の摂理」という揺りかごを離れ,客観性へ踏み出した瞬間に始まった.その先陣を切ったニッコロ・マキャヴェリ(Niccolò Machiavelli)は,政治を道徳の呪縛から断絶させ,権力のダイナミズムを赤裸々に描き出した.冷徹なリアリズムは,メディチ家への復職を拒まれた亡命生活という,個人的な挫折の熱情から滴り落ちたという.『君主論』を書き上げた際,メディチ家への献上品としてだけでなく,自らの有能さを知らしめる履歴書としてこの書を位置づけていた.しかし,その過激さゆえに存命中に日の目を見ることはなく,死後に禁書目録に指定されるという数奇な運命を辿った.リアリズムを論理的制度へと昇華させたのが,トマス・ホッブズ(Thomas Hobbes)である.

 『リヴァイアサン』において,国家を「人工的な人間」と定義したホッブズが「人工の怪物」を構想した背景には,当時のイギリス内戦という凄惨な経験がある.万人の万人に対する闘争という極北の理論を導き出し,王権神授の神秘を剥ぎ取り,国家を人間が計算可能な制度へと変貌させた功績は大きい.ホッブズの描く国家は,畏怖すべき怪物でありながら,その心臓部は安全保障という合理的交換によって拍動する.ホッブズの乾いた契約論に,人間の自由と道徳的主体性を吹き込んだのがジャン=ジャック・ルソー(Jean-Jacques Rousseau)である.特殊利益の総和ではない,公共の利益を志向する「一般意思」概念を提示した.ルソーは,学問芸術を文明の堕落と断じた『学問芸術論』で一躍名を馳せたが,私生活では楽譜の書写で生計を立て,オペラを自作するほどの音楽家でもあった.

 「文明への嫌悪」「芸術への情熱」という矛盾こそが,近代社会の不条理を穿つ源泉となったのである.一方,近代経済学の父アダム・スミス(Adam Smith)は,しばしば誤解されるような「利己心の解放者」ではない.『道徳感情論』において,他者の苦楽を鏡とする共感(Sympathy)を論理の基軸に据えた.スミスは生涯独身を通し,母と親密に暮らしながら共感の哲学を練り上げたと言われている.これら政治・国家・経済の奔流を,歴史の発展法則として統合しようとしたのがカール・マルクス(Karl Marx)である.古典派経済学の限界を資本の論理という階級構造から解き明かし,社会を静的なシステムではなく,矛盾を内包した動的プロセスとして捉え直した.ここで社会科学は,解釈の座を捨て,主体的な変革の指針たる科学的社会主義へと飛躍を遂げる.

社会科学的認識の芽がわれわれのなかで育ってくる最初の結節点は,われわれ一人一人が決断という行為に迫られることです

 マルクスが追求したのは,資本の運動法則に埋没した人間性を,社会認識の力によって奪還することであった.ひるがえって現代日本を見渡せば,社会科学はアカデミズムの枠内で驚異的な高度成長を遂げ,微細な専門分化を繰り返している.しかし,その洗練と引き換えに,学問は一般市民にとってよそよそしい専門用語の集積へと変質してしまったのではないか.本書が「市民講座」という出自を持ちながら,あえて古典の峻険な読解を要求するのは,社会認識とは熟慮という営為だからである.自らの属性やバイアスを括弧に入れ,社会を構造として凝視するには,痛みを伴う知的な自己規律を必要とする.その規律の先にのみ,われわれは社会の荒波を乗りこなす当事者としての自由を手にすることができる.

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原題: 社会認識の歩み

著者: 内田義彦

ISBN: 4004110637

© 1971 岩波書店