| 羽原は4歳年上の主婦に「シェエラザード」と名付け,週に2度逢瀬を重ねるたび,不思議な物語を聞いた.彼女は前世がやつめうなぎだったと語り,知られざる過去や叶わぬ恋の思い出も明かす――. |
千夜一夜物語の構造を援用しながら,性愛と物語の交錯を通して人間の孤独を探る.羽原が「シェエラザード」と名付けた女は専業主婦であり母でありながら,いくつもの物語を媒介する存在として機能する.シェエラザードがベッドで語る奇譚は,日常と空想を往還して羽原の心の空洞を埋める.「前世がやつめうなぎ」「愛の盗賊」のエピソードは,人の歪んだ情熱を物語化したものだ.
私の前世はやつめうなぎだったの…中略…私にははっきりとした記憶があるの.水底で石に吸い付いて,水草にまぎれてゆらゆら揺れていたり,上を通り過ぎていく太った鱒を眺めていたりした記憶が
空き巣のように他者の領域に侵入し,痕跡としてタンポンを残す行為は異常だが,愛することの不器用さや相手に自分の存在を刻み込もうとする欲望が若いシェエラザードを衝動的に操る.「盗むこと」「残すこと」が同時に作用する論理は,「不在の存在」の詩学に接続する.物語の必要性は,性愛のリズムと不可分に描かれている.『千夜一夜物語』のシェエラザードが物語によって死を回避したように,本作のシェエラザードも性交後に物語を紡ぐことで羽原を引き留める.
性愛と物語は共に,人が孤独に耐えるための生理的装置として並置されている.この短編は,『女のいない男たち』に収められているが,収録作の多くが孤独や喪失を抱えた男の視点から描かれる中で,「シェエラザード」は唯一女性が物語を紡ぐ主体として存在している.これは女性の語りの力を前景化した例である.ただし語り手は依然として男性であり,シェエラザードの物語は羽原というフィルターを通してしか読者に届かない.
『千夜一夜物語』構造を現代の閉塞的人間関係に翻案する手法は,ひとつの文学的越境性を示す.古典的な物語形式を極めて私的な空間に移し替えることで,その現代的可能性を探っている.
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原題: シェエラザード
著者: 村上春樹
ISBN: 4163900748
© 2014 文藝春秋
