▼「算盤が恋を語る話」江戸川乱歩

算盤が恋を語る話 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

 算盤を使って恋心を表現する内向的な男の物語.暗号や反復を駆使し,数字を通じて感情を伝えるが,誤読により恋の期待は打ち砕かれる.推理要素を逆手に取ったユーモアと緊張感が際立つ――.

 戸川乱歩の嗜好と日常的観察力が滑らかに混淆した小品である.怪奇や猟奇といった〈乱歩的〉期待が逆手に取られ,暗号・数表・計算というモチーフが,凡庸で純情な恋の媒介物になる.乱歩が得意とした「倒錯の転位」であり,恐怖の装置をユーモアの道具に転用することで,新たな読みの快楽を与えるのである.本篇は緩やかな反復と小さなエスカレーションで成り立っている.Tが同じ算盤を繰り返しS子の机に置くという反復行為は,徐々に読者の期待とTの内的緊張を積み上げ,最後の尾を引く落差へつながる.反復はユーモアと緊迫の双方を生む古典的な技法であり,乱歩はこれを細密に操った.

 「十二億四千五百三十二万…」という馬鹿馬鹿しい巨額は,暗号化されTの感情の誇張を可視化する.会計という職業的現実と恋という私的現実が,数字の非日常性を介して背中合わせになるのだ.Tはその指さばきを通じて,数字という冷たい記号を通じて熱情を送る.ここには触覚的なコミュニケーションが潜んでおり,文字や面と向き合う直接的告白が苦手な内向的個人にとって,計算器具が代替表現として機能するという興趣がある.付け加えれば,当時(大正末〜昭和初期)は学校や事務で算盤が日常的に用いられており,読者にとっても親しみあるランドマークであったことが,現代的には新鮮であろうか.

 本作が巧妙に利用するのは「符号化—解読—誤読」という三段階である.Tの暗号は実際には職場での五十音配列や賃銀計算の実務知識を逆手に取ったもので,話中にある「アカサタナ…/いろは順」などの記述は,暗号が成立するための前提条件である.言い換えれば,その暗号は職務に根ざした知識共同体の言語である.ところが最終的に起こる誤認――算盤の返答が実は締高の数字による偶然の一致――は,符号の恣意性と偶然性を露呈する.滑稽なほど残酷な逆転であり,Tのロマンティックな期待は現実の数字に冷たく粉砕される.Tはその瞬間,愛の言語がいかに脆弱であるかを思い知るのである.

 臆病ゆえに工夫を重ね,しかし常に自分の体面を守ろうとする姿は,現代の読者にも共感を呼ぶ.物語は抑制された筆致で進むが,細部描写における官能的な観察――耳たぶの紅,赤面の描写,帳簿や机の埃――によって内面が克明に示される.乱歩は眼差しの交換,見つめる者と見られる者の間の緊張を微細に描き,心理的な疼きへと厚みを増していく.猟奇小説としての乱歩のイメージは強いが,恐怖作家の顔だけではなく,人間心理の機微と機知に長けた作家でもあることが再認識される.暗号趣味や数表・パズルへの関心は乱歩の創作全般に一貫するテーマであり,本作はその趣味性がもっとも日常へと溶け込んだ形で提示されている.

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原題: 算盤が恋を語る話

著者: 江戸川乱歩

ISBN: 4488401112

© 1995 東京創元社