| 弁護士の城戸は,依頼者の里枝から,亡くなった夫「大祐」の身元調査という奇妙な相談を受ける.里枝は離婚を経て子供を連れて故郷に戻り,「大祐」と再婚.そして新たに生まれた子供と4人で幸せな家庭を築いていたが,ある日「大祐」が不慮の事故で命を落としてしまう.長年疎遠になっていた大祐の兄・恭一が法要に訪れ,遺影を見ると「これ,大祐じゃないです」と衝撃の事実を告げる…. |
名前と身体,記憶と関係性の狭間に潜む〈人であること〉の条件を静かに問い直す作品である.平野啓一郎が原作で提示した「分人主義」——一人の人間の中に複数の人格が存在し,すべて本当の自分である——という命題は,他者に与えられた名が剥ぎ取られたときに露わになる脆弱性を扱っていた.それが映画形式へと翻案される過程で,冷徹でありながら余白を残している.衝撃の瞬間を直接映さず,証言の断片や日常のスナップショットを積層させる.
静謐なロングショットと突発的なクローズアップが交互に訪れるたび,観客は人物の不在と痕跡を同時に意識せざるを得ない.「分人主義」の視覚化であり,主体の不在を映画的な文法で表現している.窪田正孝が体現する「男」とは,輪郭の不確かさが存在感となる奇妙な人物像である.「男」の職業を演じるため,窪田は林業訓練を通じて木を切る身体行為から命の手触りを学んだと語っている.この物理的な体験は,「男」に血肉を与える重要な準備であった.音楽は台湾出身の室内アンサンブルCicadaが手がけ,声やピアノに依らない室内楽的なテクスチャーが,画面の"見えないもの"を音で補完し,名前なき存在の内面を表現しようとする.
販売戦略では,「ドライブ・マイ・カー」(2021)の海外展開を手がけたThe Match Factoryが欧米市場向けセールスを担当し,国際的な流通を見据えた戦略が敷かれていた.海外での評価と国内の受容も本作の重要な文脈を成している.ヴェネチア国際映画祭のオリゾンティ部門に正式出品され,プレミア上映では長い拍手とスタンディングオベーションを受けた.その後,釜山国際映画祭のクロージング作品にも選出され,国内では公開翌年に日本アカデミー賞の最優秀作品賞を含む複数部門で高く評価された.ただし批評の観点から見れば,本作は必ずしも完全な成功を収めたとは言い難い.
理性的な構築に重心が置かれるあまり,人物の感情の高ぶりが観客と同期しづらいシーンも散見される.物語が真相へと収束する過程で,劇的なカタルシスを狙うよりも思索的な余白を選ぶため,即時的な感動を求める観客には物足りなく感じられるだろう.しかし,「分人主義」を正確に描くには,この距離を置く語り口が欠かせない.名前や戸籍といった制度的符号が剥がれたあとに残るものを,主観とともに客観的に検分しようとする態度こそが本作の核心であるためだ.結果として得られるのは,観客自身が自らの〈記名〉と関係性を自己解釈するためのアイロニーなのである.
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原題: ある男
監督: 石川慶
121分/日本/2021年
© 2022 「ある男」製作委員会
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