| 「影をゆずってはいただけませんか?」乞われるままに引きかえの"幸運の金袋"を受けとると,影はたちまち地面からクルクルと巻きとられてしまった……大金持にはなったものの,影がないばっかりに世間の冷たい仕打ちに苦しまねばならない青年の運命をメルヘンタッチで描いたドイツ・ロマン派の物語――. |
グリム童話やファウスト伝説と並ぶドイツ・ロマン派文学の重要な一里塚である.影を失った男は,無限の財貨を所有しようとも,社交の場では異様な存在として忌避され,社会的に排除されてしまう.人間の存在価値の消失は,ブルジョワ社会の冷徹な論理,物質的価値と社会的価値の相克ゆえである.古来より影は魂や本質を象徴するものとされ,アーデルベルト・フォン・シャミッソー(Adelbert von Chamisso)は,伝統的モチーフを貨幣経済や社会的評価の文脈に置換えることで,精神的価値と物質的価値の逆転を描き出した.
物質的富が人間存在を保証するものではなく,外的表象や社会的承認が不可欠であることを看破し,近代市民社会における人間存在の条件そのものを批判的に指摘した.そうした主題には,シャミッソー自身の来歴が色濃く反映されている.フランス革命後に亡命貴族の子としてドイツに移住した経験は,母語や故郷を喪失し,自らを"影なき詩人"として自覚したという.詩人であると同時に博物学者でもあったシャミッソーは,ロシア遠征に随行して植物学研究に従事し,カムチャツカや東南アジアを遍歴した.世界遍歴と自己喪失の経験は,影を失い漂泊する青年ペーターの姿と重なり,寓話に心理的リアリズムを与えている.
文学史的にも本作の影響は顕著である.空想譚ではあるが,個人の存在の不安定さと社会的規範の冷徹さを同時に示す作品となっているのは,著者の実体験が背景にあるためであろう.影を失った者は,無限の金貨を手にしても社会に居場所を得られないという設定は,資本増殖の幻想を解体し,人間を人間たらしめるのは結局のところ,物質ではなく社会関係であるという洞察を提示する.ペーターの苦境を描くことによって,承認や信用という不可視の制度が個人の存在や幸福に直結していることを,鋭く露わにしている.
(訳者解説)あのファウストと同様にペーター・シュレミールは人間存在にとっての永遠の問題を突きとめている.ただいささか大時代がかったゲーテの『ファウスト』とはちがって,このシュレミールはこのうえなく人間的である.涙もろくて心やさしいのだ.女に惚れっぽくてたよりない.たえず反省しつつ軽はずみである.人のやさしさにはより以上のやさしさでこたえないではいられない
20世紀におけるフランツ・カフカ(Franz Kafka),ローベルト・ムージル(Robert Musil)『特性のない男』にも通じる要素を先取りしている.またミシェル・フーコー(Michel Foucault)の論じた規律社会における個の不可視性を暗示しており,モダニズム文学への架橋として評価され得るだろうか.19世紀初頭において,既に「存在の不可視化」を寓話化していた点は,近代文学における先駆的な達成といえる.シャミッソーは,ロマン主義文学を通して社会制度や価値観を逆照射し,読者に目に見えない社会的構造の存在を鋭く意識させたのである.
++++++++++++++++++++++++++++++
Title: PETER SCHLEMIHLS WUNDERSAME GESCHICHTE
Author: Adelbert von Chamisso
ISBN: 4003241711
© 1985 岩波書店
