▼「途上」谷崎潤一郎

谷崎潤一郎犯罪小説集 (集英社文庫)

 湯河勝太郎は散歩中に私立探偵安藤と遭遇し,身辺調査を告げられる.湯河は先妻筆子を大正8年に亡くし,現在は久満子と同棲中.筆子は死の前にチフスやスペインかぜ,ガス中毒,交通事故など幾度も死の危機を経験していた――.

 誌『改造』新年文藝大附録に発表された短編であるが,単行本としては翌年『AとBの話』に収録された.当初はほとんど評価されず,ある月評家には「単なる論理的遊戯に過ぎない」と片付けられたという.しかし後年,江戸川乱歩によって再発見され,日本探偵小説史上の画期として位置づけられるに至る.物語の核心は,直接手を下さず,相手が死ぬ確率を高めるという〈プロバビリティーの犯罪〉の発想にある.

 偶然を共犯者とする冷酷かつ優美な企みは,現代で言うリスク設計の倫理を思わせる.湯河の妻は不慮の死に見舞われるが,その背後に意図はあったのか.作中で推理を展開する安藤は,状況証拠のみを武器に推論を積み上げる.この不確定性は,論理そのものの不安定さを響かせている.乱歩は1925年の評論で本作を「探偵小説に一つの時代を画する」と激賞し,外国に誇り得る日本独自の探偵小説と評価した.〈プロバビリティーの犯罪〉という概念は,本作に端を発するといってよい.

 『D坂』では,明智小五郎が「途上」を取り上げ,実際にこのような犯罪が行われた場合の不可視性を論じる場面まである.これは日本探偵小説史における思想的連続性を示す証左である.しかし,谷崎本人は乱歩の熱烈な推奨に困惑を示した.1930年のエッセイ「月寒」において,本作を「自分でも今さらあんなものを,という気がする」と述べ,探偵小説的要素は仮面に過ぎず,本質は「自分の不仕合せを知らぬままに生きる細君の哀れ」を描きたかったと回想している.

 殺意のサスペンスの背後にあるのは,人間関係の歪みと女性の悲劇であり,谷崎文学の本流――エロスと宿命,残酷な優美の美学――が透けて見える.谷崎の短編群における「妻殺し」というモチーフは連続的であるが,〈プロバビリティーの犯罪〉は知的実験ではなかった.それは谷崎の心理的暗部と密接に結びついていることを示唆する.事実,「柳湯の事件」「呪はれた戯曲」「或る調書の一節」などの諸作には,いずれも配偶者殺害の影が落ちているのである.

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原題: 途上

著者: 谷崎潤一郎

ISBN: 4087462498

© 2007 集英社