▼『危機の宰相』沢木耕太郎

危機の宰相 (文春文庫 さ 2-13)

 1960年,安保後の騒然とした世情の中で首相になった池田勇人は,次の時代のテーマを経済成長に求める.「所得倍増」.それは大蔵省で長く"敗者"だった池田と田村敏雄と下村治という三人の男たちの夢と志の結晶でもあった.戦後最大のコピー「所得倍増」を巡り,政治と経済が激突するスリリングなドラマ――.

 書の原型は1977年,『文藝春秋』に掲載された長編ノンフィクションであった.単行本化までに実に29年を要し,2006年に無名の出版社からようやく刊行された.この空白の理由は,著者がニュージャーナリズムの手法を独自に咀嚼しつつも,描き手は三人称を貫徹すべきという信念を確立するまでの葛藤にあった.結果,本書は長編処女作の座を『テロルの決算』に譲り,書き手の自我の起点を守るために温存され続けたのである.取り上げられる3人は,いずれも戦後日本を導いた大蔵官僚でありながら,挫折を経験した影の人物であった.池田勇人は戦後政治における経済内閣の象徴とされる首相だが,大蔵省内では主流を歩めず敗者と呼ばれた.

 池田のブレーンである下村治と宏知会事務長・田村敏雄もまた,奇病や捕虜体験,官僚としての失脚を経ている.この敗残者たちが,やがて日本史上最も有名なスローガン「所得倍増論」を掲げ,高度経済成長を導いたのである.当初,この構想は多くの学者・エコノミストに荒唐無稽と笑われたが,政・官・日銀の蜜月関係を背景に現実化し,日本社会を劇的に変貌させる.1960年,池田内閣は岸内閣の安保政策重視から一転して経済政策に活路を求めた.その旗印こそ「所得倍増」であったが,実はその背後に生活文化を近代化するという明確なビジョンが存在していた.これが後の「三種の神器」「新三種の神器」ブームの源流となり,日本社会の消費スタイルを決定づけた.

 当時の大蔵省は貯蓄推進運動を積極的に展開し,郵便貯金を国民的慣行とすることで,国家主導の産業投資を可能にした.この制度的枠組みは,後に小泉政権や現代の「資産所得倍増プラン」にも継承される,日本経済の長期的潮流の起点である.政策を敗者たちの野心と時代精神の結晶として読み替えることで,国家戦略の生成過程を物語化している.香川鉄蔵という陰の賢人,中山伊知郎の先駆的なエッセイなど,表舞台に出ない知の断片を拾い上げることで,歴史の深部に光を当てる.ただし,こうした成果が決して安定したものではなかった.所得倍増計画が掲げられた日本では政治テロが頻発していた.浅沼稲次郎刺殺事件,嶋中事件,ライシャワー事件──経済成長の背後には,冷戦構造とイデオロギー対立の影が色濃く差していた.著者は,この時代を危機と夢の同居として描き出す.

 敗残者たちの挑戦は,日本列島改造計画を掲げる田中角栄の時代へと受け継がれ,やがてバブル経済の狂騒を経て瓦解した.本書が描くのは体制の提示した夢と現実,『テロルの決算』が描くのは暴力と理念の交錯である.補遺を挙げておく.下村治は晩年,設計した高度成長を否定し「ゼロ成長論」を提唱した.高度成長を生んだ頭脳が,成長神話の終焉を最初に告げたのである.その警告に耳を傾ける者は少なく,やがてバブル崩壊を迎える.「世界の静かな中心であれ」という言葉を著者はラストに引用するが,1959年の正月に三島由紀夫が読売新聞紙上で発表した随筆に由来する象徴的フレーズである.政治と経済の奔流を駆け抜けた敗残者たちの志と孤独,その物語を三島の言葉で閉じることで,成長という概念の裏にある不穏な静けさを提示するのである.

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原題: 危機の宰相

著者: 沢木耕太郎

ISBN: 4167209136

© 2008 文藝春秋