| アフリカ奥地の貿易会社出張所にやってきた船乗りマーロウが耳にしたのは,最奥部の出張所をあずかる腕ききの象牙採取人クルツの噂だった.折しも音信を絶ったクルツの救出に向かうマーロウ一向の前に,死と闇の恐怖を秘めた原始の大密林がおおいかぶさる.ポーランド生れのイギリス作家コンラッドの代表作――. |
近代文学の地平を切り拓いた傑作であると同時に,帝国主義の欺瞞を暴く冷徹な告発である.深層にあるのは,文明と野蛮,理性と狂気という二項対立の境界がいかに脆く,曖昧なものであるかという痛烈な認識である.アフリカのコンゴ河を舞台に展開するこの物語は,外的な探検でありながら,内的な魂の暗部への潜行でもある.語り手マーロウ船長は,コンゴの奥地で象牙採取人カーツを捜索する任務により,蒸気船で河を遡る.旅程は「暗黒」への浸潤である.マーロウの目を通じて描かれる未開の地アフリカは,ヨーロッパ文明の仮面が剥がれ,欲望と暴力がむき出しになる鏡像――人間存在の陰影を炙り出す舞台装置であった.
世界で最も偉大な都市とされるロンドンでさえ,物語冒頭で「かつての暗黒の地」と形容される.この倒錯的な対比が示すのは,文明とは本質的に薄皮一枚の秩序にすぎず,それが剥がれ落ちた先にあるのは,原始的な衝動と破壊の力であるという冷ややかな真理である.本書が書かれたのは1899年.ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad)はポーランド系英国人としての複雑なアイデンティティを抱え,ベルギーのコンゴ自由国に勤務した.1890年にコンラッドは蒸気船でコンゴを遡行し,病に倒れた上司に代わって船を指揮した記録が残っている.小説の舞台となる「名もなき大河」は明らかにコンゴ河を指しており,その地はベルギー国王レオポルド2世(Léopold II)による私領として悪名高い搾取の場であった.
カーツのモデルに関しては諸説ある.狂気とカリスマ性を象徴するような人物として,探検家ヘンリー・モートン・スタンリー(Henry Morton Stanley),奴隷商人ティップー・ティプ(Tippu Tip),ベルギー人将校レオン・ロム(Léon Auguste Théophile Rom)が挙げられている.とりわけロムは,切断された人間の頭部を庭に飾っていたという逸話を持ち,カーツが現地で神格化されていた描写と酷似している."International Society for the Suppression of Savage Customs"(野蛮な風習抑圧国際協会)という皮肉めいた団体名も,実在の国際アフリカ協会,ベルリン会議での文明化言説の逆照射に他ならない.
カーツが残した書簡の末尾「すべての野蛮人を皆殺しにせよ!(Exterminate all the brutes!)」は,偽善的な啓蒙主義の帰結である.もはや文明化は自己の支配欲と破壊衝動の口実であり,白人の優越性を保つための残虐な詭弁でしかなかった.帝国の崩壊を描いたこの物語は,同時に人間の内部に潜む崩壊の予兆をも描いており,読後には,心のどこかに冷たい河の流れが残響するような感覚を抱かせるだろう.コンラッドは小説を書き上げた後,「これはある人生の全体相を一望に収めたものであり,狂気の男の逸話ではない」と語ったという.
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Title: HEART OF DARKNESS
Author: Joseph Conrad
ISBN: 9784003224816
© 1958 岩波書店
