| 獲物の皮を剥ぐことから"バッファロウ・ビル"と呼ばれる連続女性誘拐殺人犯が跳梁する.要員不足に悩まされるFBIが白羽の矢を立てたのは訓練生クラリス・スターリング.彼女は捜査に助言を得るべく,患者を次々に殺害して精神異常犯罪者用病院に拘禁されている医学博士ハンニバル・レクターと対面するが‥‥1980年代末からサスペンス/スリラーの潮流を支配する“悪の金字塔”――. |
現代ミステリ文学におけるサイコスリラーというジャンルを決定づけ,一つの分水嶺となった金字塔.連続殺人犯"バッファロウ・ビル"を追うFBI訓練生クラリスの捜査劇,その鍵を握る食人精神科医ハンニバル・レクターとの緊迫した心理的駆け引きが,緻密なプロット構成と文体操作によって展開される.トマス・ハリス(William Thomas Harris III)は,当時としては先駆的な形で,FBI行動分析班の捜査手法と訓練課程を取材し,プロファイリング技術を物語に反映させた.クラリスのモデルには,FBIで最初にプロファイラーとして活躍した捜査官パトリシア・カービー(Patricia Kirby)が存在し,ハリスの取材にも協力していた.
カービーの実直さや職業倫理が,クラリスの人物像にリアリティを与えている.一方,バッファロウ・ビルの造形は,実在した複数の連続殺人犯のエピソードをコラージュして創り出された存在である.女性の皮膚を剥ぎ取り「スーツ」を作ろうとする異常心理は,エド・ゲイン(Edward Theodore Gein)の猟奇行動を下敷きにしており,テッド・バンディ(Theodore Robert Bundy)が負傷を装って女性を誘拐した手口も転用されている.そして,ハンニバル・レクター像は,ハリスが1960年代に取材したメキシコの元外科医の囚人アルフレド・バッリ・トレビーニョ(Alfredo Ballí Treviño)をモデルにしている.
トレビーニョは殺人罪で収監されながらも,同房の医師として高い知性と洞察力を持ち,他の囚人や看守たちを魅了していた逸話が,レクターの妖しい魅力と重なる.本書は三人称視点の中で,レクターとクラリスの視点を細かく切り替えつつ,緊張感と曖昧な共感を抱かせる技巧を駆使している.レクターがクラリスの心の深層――子羊たちの悲鳴というトラウマ――を暴き出すくだりは,心理分析と物語的象徴が融合した本作の白眉であり,冷酷な知性と憐憫が共存する瞬間である.本書は,映画化の成功によって,文学的価値も改めて再評価されることとなった.
1991年にジョナサン・デミ(Jonathan Demme)によって映画化された際,アンソニー・ホプキンス(Anthony Hopkins)演じるレクターはスクリーンにおける最も印象的な悪役として映画史に名を刻んだ.題名"THE SILENCE OF THE LAMBS"は,クラリスの幼少期の心の深い傷から採られているが,被害者救済の動機という以上に「無垢を守る者」としての倫理観,沈黙を強いられる弱者の声なき声といったテーマ性が,猟奇殺人という過激なプロットの中に,人間性と希望のきらめきを残す要素となっている.
++++++++++++++++++++++++++++++
Title: THE SILENCE OF THE LAMBS
Author: William Thomas Harris III
ISBN: 4102167080, 4102167099
© 2012 新潮社

