■「炎のランナー」ヒュー・ハドソン

炎のランナー [Blu-ray]

 パリ・オリンピック陸上短距離で祖国イギリスに金メダルをもたらした2人の若者がいた.ユダヤの血をひいている為,言われなき差別と偏見を受けてきたハロルド.彼にとって走ることは偏見に勝利することであった.一方,宣教師の家に生まれたエリックは神のため,信仰のため走った….

 教,階級,ナショナリズムといった多層的な主題を静かに,しかし雄弁に描き出し,英国人のアイデンティティを再考させるメッセージが放たれている.物語は1924年のパリ・オリンピックを舞台に,イングランド出身のユダヤ人ハロルド・エイブラハムス(Harold Maurice Abrahams),スコットランド人でキリスト教宣教師エリック・リデル(Eric Henry Liddell)という2人の陸上選手の軌跡を並行して描く.エイブラハムスはユダヤ系移民としての社会的偏見に対抗すべく,勝利を自己証明の手段とする.一方のリデルは,信仰とスポーツの調和を求め,安易な勝利よりも信念の保持を選ぶ.この対比構造が物語に倫理的重層性をもたらし,観客の感情をカタルシスから思索へと連れ出す.

 リデルが100メートル走の予選が日曜日に行われることを理由に出場を拒否するという史実を劇中に忠実に再現している.勝つためにどこまで譲れるか,譲れぬアイデンティティとは何かという命題に対する鋭い問いかけである.ヴィジュアルと音楽の両面でも本作は時代を先取った.ヴァンゲリス(Vangelis)の手によるシンセサイザー主体のスコア《Chariots Of Fire》は,それまでの歴史映画にありがちな荘重なオーケストラとは一線を画し,現代的かつ普遍的な響きを与えた.冒頭のスローモーションとシンセ音楽の組み合わせは,以後のスポーツ映画における音楽演出に明確な影響を与えることとなる.このオープニングシーンは,終盤に該当する場面であり,時系列を超えて配置された「記憶の走り」である.

 撮影当初,英国政府もBBCもこの映画の資金提供を渋っていた.歴史的陸上競技の題材は,商業的に成功しないと見なされていたからである.しかし,製作総指揮デヴィッド・パットナム(David Puttnam)と監督ヒュー・ハドソン(Hugh Hudson)は,敢えて低予算でスタートし,無名の俳優を多数起用することで,リアリズムと新鮮味を担保した.エイブラハムス役ベン・クロス(Ben Cross)は,1978年にミュージカル「シカゴ」の敏腕弁護士役で高く評価され,映画出演経験がほぼ皆無でありながら,切実な眼差しと抑制された演技によって,説得力のあるアシュケナジム(ヨーロッパ系ユダヤ人)を生み出している.サッチャー政権下での経済格差や労働者階級の分断という文脈においても,個人の信念と努力によって勝利する物語構造は,当時のイギリス国民の心に強く訴えかけた.

 勝利の美徳は,ネオリベラル的自己責任論ではない.むしろ「社会的壁の中での意志の自由」を強調する,静かにして深い反抗の物語である.1981年のカンヌ国際映画祭のコンペティション部門で上映された際,本作はスタンディングオベーションを受けたものの,フランスの批評家から容赦なく酷評された.フランス人を「カエルども」「無節操な連中」と呼んだためである.批評家の否定的な反応が国際配給に悪影響を及ぼさないように,映画評論家ロジャー・イーバート(Roger Joseph Ebert)は他のアメリカ人批評家に働きかけ,6対5の投票で「アメリカ批評家賞」を授与した.カンヌ映画祭の60年の歴史の中で,上映作に同賞が授与された唯一の例であった.

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原題: CHARIOTS OF FIRE

監督: ヒュー・ハドソン

124分/イギリス/1981年

© 1981 Twentieth Century-Fox