▼『ビューティフル・マインド』シルヴィア・ナサー

ビューティフル・マインド: 天才数学者の絶望と奇跡 (新潮文庫 シ 38-6 Science&History Collect)

 恐るべき早熟な頭脳を持ち,21歳のときに経済学に革命的進歩をもたらすゲーム理論を打ち立てながら,統合失調症を発病.入退院を繰り返して30年以上の闘病生活を送った後に,奇跡的な回復を遂げてノーベル経済学賞に輝いた数学者ジョン・ナッシュ.綿密な取材をもとに心を病んだ天才の劇的人生に光をあて,人間存在の深淵と生きることの美しさを描いた感動のノンフィクション――.

 学者ジョン・ナッシュ(John F. Nash)の生涯を描いた伝記であるが,"Mind"は知性,記憶,精神作用,意識の複合体である.「心」という訳語に誤訳の烙印を捺すことはできないが,ナッシュの複雑かつ不可視な精神活動を描く本書においては,訳語選定の繊細さを欠いていたことは否めない.ナッシュは21歳で「ナッシュ均衡」として知られる戦略的非協力型ゲーム理論を博士論文として発表した.この業績はゲーム理論の根幹をなし,経済学,政治学,進化生物学に至るまで広範に影響を及ぼした.その輝かしい知的成果の陰で,統合失調症との長年にわたる闘いを強いられていた.その病の兆候は,数学の創造性と分かちがたく結びついていた.

 1940年代後半から1950年代初頭にかけて,ナッシュが所属したプリンストン高等研究所は,アメリカ知性の神殿とでも呼ぶべき場所であった.アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein),ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann),クルト・ゲーデル(Kurt Gödel),ロバート・オッペンハイマー(J. Robert Oppenheimer)らが集結し,論理と数理によって世界の構造を読み解こうとしていた.ここでナッシュは,直観と数学的厳密さのはざまで独自の知的空間を構築した.著者はその空間の記述において,数式よりも人物描写の筆致を優先させたが,それによって孤絶した精神の輪郭が鮮明になっている.ナッシュの病状は1959年に急速に悪化し,やがて「ファインホールの幽霊」と陰で呼ばれる存在となった.

ナッシュは,科学というよりはむしろ音楽や絵画の世界の住人がそうであるような,不思議な才能をもつ天才だった.頭の回転がきわめて速く,記憶力が抜群で,集中力がすぐれているというだけではなく,理性に先立って,まず直観がひらめくのだ.リーマン,ポアンカレ,ラマヌジャンといった多くの偉大な直観主義の数学者と同じく,ナッシュも最初にヴィジョンを目にし,そののち苦労して自らのヴィジョンの正しさを証明した.とはいえ,鮮やかな結論について説明を受けたあとでも,彼の思考過程を理解するのは容易なことではなかった

 だぶだぶの服をまとい,廊下を徘徊する姿は,天才の落魄というステレオタイプの現実化である.しかし,そのような中でも彼を支え続けたのが,妻アリシア(Alicia Lopez-Harrison de Lardé)の献身であった.この関係性は,映画「ビューティフル・マインド」(2001)で美化され,アカデミー賞を受賞するなど広く評価された.ただし,映画はナッシュの同性愛的傾向や,息子とともに続いた精神疾患,非嫡出子への無責任な態度,果ては破廉恥罪での逮捕といった複雑な現実を省略・改変しており,伝記としての忠実性には遠い.本書はむしろ,映画がカットした現実の断片に光を当てる.ナッシュは科学界の栄光を手にする一方で,社会生活の面ではしばしば問題を抱えていた.

 ノーベル経済学賞の受賞においても,彼の実績の再評価と,選考委員会内での政治的な駆け引きがあったことが明らかにされている.1950年代以降,ナッシュの主要な学術的成果は事実上途絶えていたにもかかわらず,その理論的影響力の深さが評価されたのである.したがって,本書はノーベル賞という制度そのもののあり方,業績に対する人物評という対比軸に対して,問題提起を内包している.ナッシュは統合失調症から自然寛解したとされる稀有な例である.薬物治療に依らず,ある日突然「幻覚が意味を成さなくなった」と自ら述懐している.本書はときに冗長であり,資料の羅列に終始する箇所もあるが,ナッシュの精神は,病と数学の両極を揺れ動きながら,そのどちらによっても定義されることなく生き続けた.本書は「定義できなさ」自体を描き出した評伝である.

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Title: A BEAUTIFUL MIND

Author: Sylvia Nasar

ISBN: 4102184414

© 2013 新潮社