| 1961年5月,ドミニカ共和国.31年に及ぶ圧政を敷いた稀代の独裁者,トゥルヒーリョの身に迫る暗殺計画.恐怖政治時代からその瞬間に至るまで,さらにその後の混乱する共和国の姿を,待ち伏せる暗殺者たち,トゥルヒーリョの腹心ら,排除された元腹心の娘,そしてトゥルヒーリョ自身など,さまざまな視点から複眼的に描き出す,圧倒的な大長篇小説――. |
暴力がいかにして制度化され,記憶は歪められるかという問題を,政治小説の装いを借りて問う文学的モニュメント.20世紀ラテンアメリカ最悪の独裁者ラファエル・トルヒーヨ(Rafael Trujillo)の死,その周縁にいた人々の沈黙と告白を描くことで,「語ること」の政治性を主題化する稀有な小説である.本作が成立するにあたっては,マリオ・バルガス=リョサ(Mario Vargas Llosa)自身の政治的変遷も無視できない.若年期にキューバ革命を熱烈に支持していたが,1971年のパディージャ事件――詩人エベルト・パディージャ(Heberto Padilla)の投獄――をきっかけに共産主義への幻滅を抱き,リベラルな民主主義の旗手へと転じていった.この政治的転向は,後年のバルガス=リョサの創作活動においても顕著であり,本書においても,全体主義とその心理的残滓に対する徹底的な批判精神として結実している.30年ぶりにドミニカ共和国に戻った女性ウラニアの一人称視点は,記憶とトラウマ,女性の身体を通じて制度的暴力を内面化する装置であり,その語りはやがて激情を帯びた糾弾へと変容する.
ウラニアの父アウグストは架空の人物であるが,そのモデルとされるのは,実際にトルヒーヨ政権で恩恵を受けたインテリ層の協力者たちであり,沈黙と引き換えに特権を得た者たちへの痛烈な倫理的審問である.第二の視点は,トルヒーヨ暗殺に関わる軍人たちの立場的視点である.いわゆる英雄譚とは無縁の,極度の緊張,不信,失敗への恐怖が詳細に描かれており,ラテンアメリカ文学にありがちな革命ロマン主義から距離を取った冷徹な描写が貫かれる.バルガス=リョサが,暗殺者たちに対しても聖化を拒み,人間的矛盾をあえて強調している点は重要である.トルヒーヨが死んでも,亡霊のような制度は生き続ける現実が,軍部関係者の末路を通して暴かれる.第三の視点は,トルヒーヨ本人の一日である.バルガス=リョサは独裁者の頭の中にまで分け入り,排尿障害,性的不能,肛門洗浄への異常な執着など,身体的弱点を生々しく描いた.権力の神格化を徹底的に剥ぎ取ろうとする意図が込められており,「神話の脱構築」が行われている.作中で繰り返される「チボ(山羊)」という蔑称も,トルヒーヨの肉体的老化や性的退廃を揶揄するもので,支配者の象徴性を動物的退化へと転落させる痛烈なアイロニーである.
沈黙してきたドミニカ社会に対し,ウラニアの語りは知的で道徳的な審級として機能し,あらゆる抑圧を相対化する批評精神そのものといえるだろうか.バルガス=リョサはドミニカ共和国におけるトルヒーヨ政権の生存者――被害者のみならず,加担者や家族までも含めた人々――から数多くの証言を収集し,時間構成も極めて精巧である.物語は暗殺事件当日のリアルタイム進行を基軸に,ウラニアの過去と現在が交差する複層的な時間軸を形成する.過去は過ぎ去ったものではなく,常に現在に再帰する主題が強調され,個人の記憶が歴史的事実とどう絡み合うかが視覚的に示される.この歴史の複層性は,ポリフォニック(多声的)な語り構造の実践であった.ラテンアメリカ文学において独裁者小説(novela del dictador)は,国家と文学の関係性をめぐる格闘の形式として,ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel García Márquez)『族長の秋』,ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(Miguel Ángel Asturias)『大統領閣下』などが先行している.
本書は,それらの作品がしばしば用いた寓話性や魔術的リアリズムとは異なり,徹底した歴史資料とリアリズムを基調とする.しかも,個人の倫理的責任にまで踏み込む点において,この系譜の中でも特異な位置を占める.バルガス=リョサは本書を通じて,「語ることが暴力といかに関係しうるか」という文学的命題にも答えた.すなわち,語ることは現実に介入する行為であり,同時に過去の暴力を歴史化=可視化する武器である.ウラニアの語りは,その意味で私小説でも証言文学でもない.むしろそれは,沈黙によって正当化されてきた制度そのものを批評する,フィクションを通じた真実の運動である.本書は,文学が権力の神話を解体しうるという信念を最も精緻に表現した作品の一つである.フィクションでありながら,歴史を再構築する道徳的・政治的意志に貫かれたこの作品は,ラテンアメリカ文学史における記憶と責任の文学の金字塔である.「語られなかった声」がついに歴史の場に立つという,文学による遅れてきた正義なのである.
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Title: LA FIESTA DEL CHIVO
Author: Mario Vargas Llosa
ISBN: 4861823110
© 2011 作品社
