▼『数学する精神』加藤文元

数学する精神 増補版-正しさの創造、美しさの発見 (中公新書 1912)

 数学における「正しさ」とは何だろうか.公式や証明は絶対的に正しいもので,揺るぎない「神の知」だと思っている人も少なくないだろう.しかし数学を創ったのが人間である以上,究極的には仮説的で暫定的であることを免れない.ならば「正しさ」「美しさ」は,数学という営みにおいてどんな意味を持つのか.「真の正しさ」「美しさ」に正面から対峙した伝説の書に,「数学とは何なのか」を論じる「後奏曲」を加筆した増補決定版――.

 理の探求を通じて定義された数学の正しさと美しさが如何にして直感的に結びつくかを探る.この考察は,数学が人間の精神的活動であり,哲学的・芸術的側面を再認識させる.数学における正しさと美しさは,しばしば哲学や美学の問題とも密接に結びついており,その概念は古代から続く歴史的背景を持っている.ピタゴラス(Πυθαγόρας)が唱えた世界は数でできているという命題には,数学的構造が宇宙の根本的な調和を表すという視点があり,その思想は後の数学者や芸術家に影響を与えた.黄金比(1:1.618...)は,自然界や人間の身体,さらには建築や美術においても美を象徴する比率として長らく用いられてきた.黄金比の美的直感は,数学の美しさが人間の感覚にどれほど深く根ざしているかを示す一例であり,数学が論理の遊戯でないことを証明している.

 本書で述べられるメタ視点の重要性は,現代のAI技術と比較することでさらに際立つかもしれない.AIは,数値的な計算やアルゴリズムによる処理に優れており,正しさを判定する能力に長けている.しかし,AIが行う計算はあくまで与えられたモデル内での正しさに過ぎず,そのモデル自体の正当性や美的直感に基づいた選択を行うことはできない.数学においても,人間はモデルの正しさを選択する役割を担い,その選択はしばしば美的直感や整合性の感覚に基づいている.AIの計算能力が進化する一方で,数学における創造的な発見は依然として人間の感覚に依存しており,この点でAIと人間の根本的な違いが現れるはずだ.数学の発展においては,しばしば直感的な美しさが新たな理論を切り開く原動力となっている.

 19世紀の非ユークリッド幾何学の誕生は,ユークリッド幾何学の枠を超えた直感的な考え方から生まれた.ニコライ・ロバチェフスキー(Никола́й Ива́нович Лобаче́вский)やゲオルク・リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann)は,ユークリッドの平行線公理に疑問を呈し,従来の幾何学とは異なる体系を構築した.直感は,後の一般相対性理論における時空間の理解にも大きな影響を及ぼしている.数学の美しさは,理論の整合性や予測可能な秩序,そして新しいパターンの発見に現れる.これこそが,数学が技巧的なスキルではなく,哲学的洞察を伴うアートであることを示す証左となる.古代の数学者たちが発見した定理が現代でも有効である事実は,数学が自然界や現実世界を理解するための普遍言語であることを物語っている.

 著者が論じる数学の正しさと美しさの問題は,数学内での理論的議論にとどまらず,現代社会における技術革新や倫理的課題とも結びついている.著者は,正しさにはテオリア(理論的正しさ),オーパス(創作的正しさ),コギト(思考的正しさ)など,多様な形態があることを指摘し,その中でもマシンの正しさが新たな数学の地平を開く可能性について触れている.AIが数学における正しさを拡張する可能性を示唆しており,この点で著者は,数学が未来に向けて進化し続ける力を持っていることを示す.数学を学ぶことは真理の探求に他ならず,その過程で出会う正しさと美しさは,数学的直感と創造力によって支えられている.数学に関心を持つすべての人々にとって,本書は数学書にとどまらず,哲学的・倫理的視点を含んだ重要な読み物である.

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原題: 数学する精神―正しさの創造,美しさの発見

著者: 加藤文元

ISBN: 4121919122

© 2020 中央公論新社