▼『大いなる助走』筒井康隆

新装版 大いなる助走 (文春文庫)

 同人誌「焼畑文芸」に載った処女作がヒョンなことから「直廾賞候補」となった市谷京二.周囲の羨望と冷笑,「カモ」を待ち受ける作家,編集者たち.受賞めざして繰り広げられる駆け引き,陰謀の末の悲劇!ブンガクをめぐる狂乱と欺瞞を徹底的にカリカチュアライズして描き文壇を震撼させた猛毒性長篇小説――.

 後高度成長期における文学と文壇の肥大化,地方化と腐敗を記録した一種の碑文である.直廾(なおく)賞という架空の文学賞は直木賞を連想させる仕掛けを含み,虚構を装いながらも,現実の文学界を鋭く抉る.作中で選考委員を次々と殺害するという主人公の行動は,文学賞という制度そのものへの痛烈な挑発である.本作の連載が始まったのは『別冊文藝春秋』であった.直木賞を主催する文藝春秋でこのような物語が連載されたこと自体が大きな話題となり,1978年には小学館『週刊ポスト』が特集を組むなど,作品は一大センセーションを巻き起こした.直木賞への3度のノミネートを経てなお受賞に至らなかった著者自身の経歴が透けて見えることから,一部では私怨の晴らしと揶揄された.しかし著者は,インタビューや回想の中で純粋に面白い作品を書こうとしたと語り,その執筆動機を正面から否定している.

 直木賞を受賞していれば,作家としての成長が止まっていただろう,と後年振り返るなど,受賞を逃したことに対する感謝すら述べている.文学賞選考の内幕を描く本作は,フィクションでありながら現実の文壇の縮図である.作中ではSFジャンルという理由で候補作が落選する場面が描かれるが,これは現実にも存在したSFへの偏見を反映している.当時,小松左京,星新一らによって牽引された日本SF界は,一部の純文学作家から軽蔑されることが少なくなかった.連載中,モデルとされた選考委員の一人が文藝春秋編集部に怒鳴り込む事件が発生した.著者は後年,この出来事をエッセイでたびたび取り上げ,ある種のブラック・ユーモアとして扱った.こうした挑発的な姿勢は,閉鎖的で自己満足的な1970年代の文壇に鋭い批評を投げかけると同時に,文学賞という制度の持つ矛盾を浮き彫りにした.

 注目すべきは,著者が執筆の際に参考にしたとされる実際の選考委員会議の記録である.文壇内で密かに共有されていたもので,そこには候補作への批判や選考委員同士の衝突が詳細に記されていた.これらのエピソードを元に,選考委員たちの内面の醜さや利害関係を浮き彫りにするキャラクターを創り上げたと思われる.この点においても,本作は文壇という舞台の一種の実録的要素を持ち合わせている.この小説について,大岡昇平はオノレ・ド・バルザック(Honoré de Balzac)の長編『幻滅』に例えつつ,文壇を壮大なスケールで描く野心に満ちていると高く評価した.一方で,大岡自身が描き得なかったテーマに対する羨望をにじませた発言は,本作が持つ野心と破壊力を象徴するものだった.

 意図的に取り入れた風刺要素について,当時の文壇関係者からはここまでやられると笑うしかない,といった感想が寄せられたという.2005年には,著者が文学賞の選考委員を務める立場となった際,新装版が出版された.著者は,自身が批判してきた立場に回ったことをブーメランのように返ってきたと表現し,自己批評的なユーモアを添えた.また,井上ひさしが文学賞選考会で「この人に賞を与えないと,直木賞を与えなかったのと同じ失敗になる」と発言した逸話は,本作の持つ影響力の大きさを如実に示していた.文壇の内幕,作家の矜持,文学賞という制度の光と影を知れば知るほど,この作品の持つ奥行きが見えてくる.文学を愛する者にとって,この毒々しくも滑稽な物語は,文学そのものへの愛憎入り混じった挑発であり,祝祭である.

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原題: 大いなる助走

著者: 筒井康隆

ISBN: 4167181142

© 2005 文藝春秋