▼『科挙史』宮崎市定

科挙史 (東洋文庫 470)

 秋田屋版『科挙』の補訂版.旧中国の官僚資格試験である科挙の制度とその実態を知らずして,中国の政治と文化を語りえない.中国を学ぶものの座右に置いて熟読玩味すべき書.新たに解題と索引を付す――.

 代から清末までの約1,300年間,社会構造や文化の中核を担い続けた官僚登用試験制度「科挙」の設計理念は,貴族的特権を排除し,才能を基準とした人材登用を目指すことにあった.隋の文帝楊堅が598年に制度を開始した際,九品中正制の弊害があった.中正官による推薦が貴族の特権に偏り,結果として政治の腐敗を招いたためである.そこで改革によって科挙が導入され,貴族階級に代わる新たな官僚層が台頭した.科挙制度は,社会的流動性を促進する装置として機能した一方で,公平性には大きな限界があった.科挙を受験するには,莫大な費用と長期間の準備が必要だった.唐代や宋代の受験生は,多くの場合,幼少期から蒙館と呼ばれる私塾に通い,四書五経を暗記する訓練を受けた.貧困層の子弟がこの過程を経ることはほぼ不可能であり,実際には富裕な地主や商人の子弟に機会が限定されていた.

 試験場に向かうための旅費や宿泊費,試験官への賄賂まで含めると,費用は現代の価値で2,000万円を超えるとされる.こうした経済的負担は,制度が平等を装いながらも,社会的格差を再生産する側面を持っていたことを示している.試験そのものも極めて過酷であった.受験生は「考棚」と呼ばれる狭い個室で数日間を過ごし,食事や排泄もその場で行った.過酷な環境は受験生の精神的・身体的な負担を増大させ,試験中に命を落とす者さえいた.試験に合格する確率は非常に低く,唐代では受験者の1%以下しか合格できなかったという.試験会場では不合格者による暴動が起きることも珍しくなく,制度の厳しさは社会不安を生む一因となった.唐代には,進士科をはじめとする試験が文学的能力を重視し,詩や賦が重要な試験科目となった.そのため,詩作が高級官僚の必須教養とされ,文学の発展を促した.

 詩が文学の中心となった背景には,当時の中国社会が詩を人格形成の一部と見なしていたことがある.官僚に共通の誇り――「万般皆下品,惟有読書高官僚」(読書以外はみな賤しい)――により,李白や杜甫といった巨匠たちが科挙を通じて影響を受け,その作品に受験体験が反映されることとなった.科挙で成功を収められなかった知識人も多く,彼らの葛藤が後世の文学に多大な影響を与えた.宋代以降,科挙には朱子学が採用され,儒教の教義が官僚教育の核心となった.このことで,朱子学が社会思想として確立される一方,官僚たちが形式主義に陥る弊害も生じた.科挙の試験問題は経書の解釈や古典の暗記に偏り,創造性や実務能力を評価するには不十分であった.この形式主義は,明清時代にさらに強化され,学問や文化の停滞を招いた.文官の科挙に比べ,武官を登用する「武科挙」は注目度が低かった.武官に求められる実践的な能力が試験の成績と直結しなかったためである.

 武科挙の受験生は,兵法書『孫子』の学習や弓術・馬術などの実技試験に臨んだが,これが実際の戦場での能力を保証するものではなかった.清代の名将曾国藩が武科挙出身でないことも,武官登用の限界を物語っている.科挙の合格発表における制度「金榜題名」も興味深い.合格者の名前が金文字で掲示される栄誉を指し,一族の名誉となる一大行事であった.合格者は進士として宮廷に招かれ,宴席で皇帝から祝福を受けた.特権的な儀式は,受験者たちの競争意欲を煽り,不合格者の絶望を際立たせる結果にもつながった.不合格者が自害する事件は,試験制度の過酷さを象徴する悲劇である.清末になると,西欧列強の影響が中国社会に及び始め,科挙制度の形式主義は,近代的な実務能力を必要とする社会では機能不全を起こした.義和団事件後,清朝は新教育制度を導入し,1905年9月に科挙廃止を決定した.これにより,1,300年にわたる制度は幕を下ろし,中国近代教育への転換が始まった.

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原題: 科挙史

著者: 宮崎市定

ISBN: 4582804705

© 1987 平凡社