| 他人から害を受ければ復讐の感情がおきるのも当然であろう.しかし讐には讐で報いたならば,人は死傷し,一家は崩壊,部族もまた亡びるやもしれぬ.この危険を避けるために,どのように私的制裁から公的制裁へと移行したかを,ローマ法・周礼はもとより古事記・旧約聖書・コーランなどから豊富な例証を用いて説述――. |
法治社会の成立と進化の中核には,復讐という本能的な行為が私的制裁から公的制裁へと移行し,法が社会全体の安定と秩序を維持するために機能するようになった過程がある.本書は,この変遷を歴史的かつ法哲学的に解明し,法の進化を照らし出す.復讐は,原始的な生存競争の中で不可欠な役割を果たしてきた.アフリカの一部の狩猟採集社会では,家族を傷つけた相手に報復しない者は集団内で信用を失うとされ,その結果,村八分や放逐に繋がることもあった.復讐は,個人的感情を超えて,集団の存続を支える機能を持っていた.しかし,復讐が過剰になると,部族間戦争や社会不安を引き起こすリスクが高まる.このジレンマを解決するため,復讐行為を規制する初期の法的枠組みが生まれた.
古代メソポタミアのハンムラビ法典は,「目には目を,歯には歯を」という復讐の均衡を保つ規定を設けた.この原則は,過剰な復讐を防ぎ,加害者と被害者の間に一定の公平性を保証する目的があった.同様に,古代ギリシャの都市国家スパルタでは,復讐を行う前に市民集会でその正当性を審議する習慣があり,個人的な復讐が公的な決定に置換えられていった.また,イヌイット社会では,復讐がエスカレートするのを防ぐために,争いが歌や詩を使った決闘によって解決されることがあった.復讐の暴力性が儀式化され,社会的合意を通じて終結が図られたのである.貨幣経済の普及は,復讐が賠償制に移行する契機となった.北欧のヴァイキング社会では,殺人に対する賠償金――ウェルギルド――が導入され,被害者の家族に金銭的補償が行われることで復讐の代替とされた.
日本の江戸時代には仇討が一定の条件下で合法とされていた.この制度の背景には,復讐が完全に排除されると民衆の不満を引き起こす可能性があったため,法的枠組みの中で復讐を統制するという政策的配慮があった.仇討が認められるためには,事前に幕府の許可を得る必要があり,公的な制裁の一環として復讐を社会システム化したものであった.中世ヨーロッパでは,賠償金だけでなく贖罪の儀式が追加されることが多くみられる.加害者が教会に謝罪し,神の赦しを得ることで復讐を終結させる形であった.罪人を公開処刑することで,国家が法を執行する力を民衆に示した例も多い.フランス革命後のギロチンの使用は,法の公平性を象徴するものとされた.一方,イスラム法では,被害者の家族が加害者に対する刑罰を選択する権利が認められており,復讐の権利と赦しが法の中で共存し,国家と個人の間で刑罰の責任分担が行われた.
本書は,刑罰が復讐の代替として機能するようになると,国家がその実行主体としての役割を強化した歴史的事例を包括的に取り上げ,復讐が私的な感情から公共の秩序を維持する制度へと変容した過程を詳述している.旧約聖書や古事記,コーランなどの宗教的文献から,ローマ法や中世ヨーロッパの法制度に至るまで,幅広い資料を駆使して法の進化を描き出している点は圧巻である.復讐が人類の歴史において果たした役割を再評価することは,現代法の根底にある原理を理解するために重要である.本書を通じて示されるのは,法による制裁は人間の本能,感情,文化,そして社会的必要性に根ざした進化の産物という事実である.復讐から賠償,そして刑罰への移行は,個人の暴力を国家的秩序へと変換するプロセスであり,法治社会の基盤を築くものであった.
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原題: 復讐と法律
著者: 穂積陳重
ISBN: 4003314735
© 1982 岩波書店
