| 毎日の食卓で,行きつけの喫茶店で,異国の地で味わう,一杯の珈琲.昭和の文豪や現代の人気作家によるエッセイ,詩,漫画,写真資料を収録.珈琲の香りただよう52編――. |
古今の文学者たちによるコーヒーにまつわるエッセイや詩が詰まったこの一冊は,嗜好品としての珈琲を超えて,文化や人間の営みを映し出す鏡となっている.収録された52編には,珈琲を通して描かれる日常の一場面,創作のインスピレーションを得る瞬間,さらには喫茶店の文化や異国の体験が豊かに広がっている.広津和郎が語る正宗白鳥のエピソードは,珈琲を媒介とした人間観察であった.広津が描写する白鳥は,明快な人格と透徹した非凡さを持ちながら,自然体の気遣いを見せる人物.それを見つめる広津自身の視点にも,人間的な温かみが宿る.このような人間性が,珈琲のもつ「間」を繋ぐ力を象徴しているかのようだ.
小沼丹の文章では,珈琲が日常の何気ない特別を引き立てる役割を果たしていることが感じられる.「珈琲の木」には,植木の小さな苗に寄せる愛情と,日常に潜む豊かさが描かれている.このアンソロジーには,19世紀後半生まれの文豪から現代作家まで幅広い世代が登場する.夏目漱石の「珈琲店,酒肆及び倶楽部」では,明治時代のカフェ文化を窺い知ることができる.銀座のカフェ女給の服装に触れたエッセイは,当時の喫茶文化の貴重な記録だ.作家たちの個性が際立つエピソードも興味深い.
有吉佐和子が愛したタンザニアの緑の珈琲は,娘である有吉玉青によって語られ,エキゾチックな風味が想像をかき立てる.水木しげるの「飲める時に飲んでおく」という言葉は,独特のユーモアと現実的な人生観を映し出している.寺田寅彦の名言「コーヒーや哲学に酔うて犯罪をあえてするものはまれである」は,珈琲のもたらす知的なひらめきを端的に表現しており,その観察力に驚かされる.寺田が病弱だった子供時代に感じた「南洋的西洋的な香気は未知の極楽郷から遠洋を渡って来た一脈の薫風」と表現した描写には,時代背景を超えた詩情が漂う.
珈琲の楽しみ方も多種多様である.日高敏隆がフランス留学中に学んだ「食後の珈琲」という習慣や,植草甚一が喫茶店で本を読む喜びを綴ったエッセイには,珈琲がいかに人々の日常に根付いているかがうかがえる.池波正太郎の「下町の〔コーヒー〕」では,東京の下町文化と珈琲の結びつきが描かれている.本書を通して,珈琲という一杯の飲み物が,人生,文化,創作においてどれほど深い役割を果たしているかを実感できるだろう.作家たちが紡ぐ珈琲への愛と,そこに秘められた物語は,私たちの何気ない日常を照らし,心豊かな時間へと導く.一杯の珈琲が,読書や思索,そして出会いの瞬間をいっそう輝かせている.
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原題: 作家と珈琲
著者: 平凡社編集部〔編〕
ISBN: 4582747140
© 2022 平凡社
