| HHhHとは「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」を意味する符丁である.〈第三帝国で最も危険な男〉とも〈金髪の野獣〉とも呼ばれた,ユダヤ人大量虐殺の首謀者ハイドリヒ暗殺計画がプラハに潜入した二人の青年によって決行された.それに続くナチスの報復,青年たちの運命……ナチスとは,いったい何だったのか?ハイドリヒとは何者だったのか?ビネは史実を題材に小説を書くことの本質を自らに,そして読者に問いかける――. |
ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Tristan Eugen Heydrich)は,冷徹なアーリア的風貌と残虐性で「プラハの虐殺者」「金髪の獣」として多くの者に畏怖と憎悪を抱かせた.ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler)の後継者も視野に入れていたハイドリヒは,ユダヤ人問題の最終解決という名の大量虐殺計画を主導した.チェコスロバキア出身ヨゼフ・ガプチーク(Jozef Gabčík)とヤン・クビシュ(Jan Kubiš)という2人の若者が,イギリスの秘密情報機関により訓練され,占領下のチェコスロバキアへと送り込まれた.彼らはプラハの街中でハイドリヒの車を襲撃し,致命傷を負わせた.ハイドリヒ暗殺は,暗い戦争の時代における抵抗の象徴であり,多大な犠牲を伴いながらも,歴史の流れを変える一歩となった.
本書のタイトルは“Himmlers Hirn heisst Heydrich”(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の略語であり,ハイドリヒがナチス内で持っていた恐るべき影響力を示唆している.第2次世界大戦における暗殺者の英雄的行動を物語るだけでなく,歴史そのものやそれを語る行為についての考察を促している.著者の語り口は,歴史的事実と創作の間を行き来する独特なものである.物語の冒頭で,歴史上の人物を俗物的なキャラクターに落とし込むことを避けたいと述べつつも,自身の想像力に頼らざるを得ない葛藤を露呈する.この姿勢は,作中で何度も表出する自己反省的な独白に表れている.ハイドリヒの幼少期や暗殺計画に至る過程の描写では,緻密なリサーチが物語を支えている.一方で,著者は自らの手で創作した場面についても率直に言及し,物語に与える影響を読者と共有する.
この手法は,しばしばメタフィクションと呼ばれる.物語そのものを語る行為や作家の葛藤を作品内で明示することで,読者に新たな視点を提供するものである.著者の目指すものは,歴史的事実に基づいた小説がどのように構築されるべきかという探求である.この探求が,物語に独自の緊張感を与えている.プラハの街中で行われた襲撃の緊迫感,暗殺者の2人が潜伏先の教会で追い詰められ,壮絶な最期を遂げる場面では,犠牲の重さが痛ましい.同時に,事件によって引き起こされたナチスによる残虐な報復――リディツェ村の虐殺――が,抵抗の代償の大きさを際立たせている.ハイドリヒ暗殺の背景には,暗殺を計画したイギリス情報機関が作戦に用いた暗号名"アンソロポイド"が挙げられる.
「人間」を意味する言葉であるが,彼らは人間性を守るために非人道的な抑圧に立ち向かったのである.暗殺計画には数々の困難が伴い,ガブチークの銃が現場で作動しなかったため,クビシュがとっさに手榴弾を投げて攻撃を成功させたという偶然も作用している.著者は創作を通じて,歴史を理解することは証拠を捏造することを指摘しつつ,フィクションの力を認める.語られ方によって,物語は歴史の記録を超えて,登場人物たちの感情や行動の動機を掘り下げ,深い共感を呼び起こすことができるだろう.ただし,ハイドリヒという怪物に挑んだ若者たちの悲劇的事実に挟まれる著者の主観と創作は,メタ効果を狙っているがすべて逆効果に終わっている.著者の文学的力量が貧弱だからである.
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Title: HHhH
Author: Laurent Binet
ISBN: 9784488805029
© 2023 東京創元社
