▼『幸福とは何か』長谷川宏

幸福とは何か - ソクラテスからアラン、ラッセルまで (中公新書 2495)

 幸福とは何か.この問いに哲学者たちはどう向き合ってきたのか.共同体の秩序と個人の衝突に直面した古代ギリシアのソクラテス,アリストテレスに始まり,道徳と幸福の対立を見据えたイギリス経験論のヒューム,アダム・スミス.さらに人類が世界大戦へと行きついた二〇世紀のアラン,ラッセルまで.ヘーゲル研究で知られる在野の哲学者が,日常の地平から西洋哲学を捉えなおし,幸福のかたちを浮き彫りにする――.

 連が毎年発表する「世界幸福度報告書」では,幸福の約75%が信頼感,堅調な経済成長,健康寿命,良好な人間関係,寛容さ,そして自己選択の自由に依存すると指摘されている.これに加え,自己実現,成長,つながりと感謝,前向きな楽観主義,独立性,自分らしさを追求することが幸福感の向上に寄与すると考えられている.幸福の本質を探る西洋哲学史は,古代ギリシャのソクラテス(Σωκράτης)をはじめ,アリストテレス(Ἀριστοτέλης),ストア派哲学者の思想は近代哲学に受け継がれ,デイヴィッド・ヒューム(David Hume),イマヌエル・カント(Immanuel Kant),バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)のような哲学者たちによって新たな展開を遂げた.幸福には幸運要素が含意されており,外的要因や偶然の巡り合わせとも深く関わっている.

 ソクラテスにとって幸福とは,「善く生きること」にほかならなかった.思想の中心には魂の徳があり,理性と倫理的行為によって培われるものであった.ソクラテス式問答法(エレンコス)は,対話を通じて人々が無知を自覚し,真理へと導かれるプロセスである.この方法論は,現代においても教育学や認知行動療法に応用されている.一方,ソクラテスの生涯は,幸福と共同体との緊張関係をも浮き彫りにした.国家の法に従い刑死を選んだことは,個人の信念と社会規範の対立を意味する出来事であった.ソクラテスが法廷で論理的思考(ロゴス)を駆使して弁明したその行為自体が幸福と解釈されるが,果たして共同体と徹底的に論争し,生き延びる選択をした場合,別の形の幸福を達成できたのかとの議論も成り立つ.

 エピクロスは,幸福を「身体の痛みと心の動揺からの自由」と定義した.学派はエピクロスの庭と呼ばれる場所で,友愛を基盤とした共同生活を送った.この庭は外界の混乱を排除する理想的な空間として機能し,現在のコワーキングスペースにも通じる役割を果たしたといえるだろうか.エピクロスの思想はルネサンス期にも再評価され,科学革命の基盤となる原子論的世界観に影響を与えた.近代において,ヒュームやアダム・スミス(Adam Smith)は,幸福と道徳の関係を独自の視点から探求した.ヒュームは感情を重視し,幸福は経験に基づく快楽と結びつくと論じた一方,スミスは共感によって形成される道徳秩序が重要であると『道徳感情論』で主張した.幸福に関する思想と知見は,幸福を個人の内部に閉じ込めるのではなく,社会的関係の中に見いだす重要性を示している.

人間が人間としてこの世に生きていくことからすると,幸福の対極にあって深くかかわるものとして道徳ないし義務が浮かび上がってくるが,思想史の流れを見わたすと,哲学的主題としては幸福よりも道徳ないし義務が取り上げられるほうがはるかに多かった.道徳ないし義務は,幸福に比べれば概念の輪郭が明確に思いえがけるし,それとともに,上位の者が下位の者に教え諭すという哲学の一般的な構図に適合しやすいからだ

 スミスが"見えざる手"の概念を通じて市場経済の調和を論じた背景には,人々の利己的な行動が結果的に他者の幸福に寄与するという逆説的な視点があった.20世紀に入り,幸福論は戦争や社会変動の影響を大きく受けた.ラッセルは,個人の創造性や知的追求を幸福の要因として挙げ,社会的正義や思想の自由を幸福の前提条件として強調し,平和運動に尽力した.ノーベル文学賞の受賞理由は「人道的理想と思想の自由を擁護する」姿勢を評価するということであった.著者は,宗教的幸福観については本書で論じていない.カール・ヒルティ(Carl Hilty)『幸福論』や中世スコラ哲学を取り上げなかった理由として,信仰がこの世を超越するものである一方で,幸福はこの世で実現されるものと位置づけたからである.

身のまわりの幸福は,自分の身を置く足場から考え,作り上げていくしかない.いま幸福は,大状況の色に染まらない,自分独自の幸福としてしかない.その意味で幸福論の守備範囲を設定することは世界を見る目を磨くことに通じ,思考の形として価値のあることだといえよう.幸福論は,対象となる幸福に似て,晴れがましさや華やかさとは縁遠い,地味で,ゆったりとした穏やかなものでなければならない

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原題: 幸福とは何か―ソクラテスからアラン,ラッセルまで

著者: 長谷川宏

ISBN: 4121024958

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