| 臨床の場に身を置きつづけながら,綺羅星のような著作および翻訳を遺した稀代の精神病理学者木村敏(1931-2021年).その創造性は世界的に見ても人後に落ちない.著者の名を世に広く知らしめるとともに,社会精神医学的な雰囲気を濃く帯びていることで,数ある著作のなかでもひときわ異彩を放つ名著に,畏友・渡辺哲夫による渾身の解説を収録――. |
精神異常の世界において,日常的に「正常」とされる行動や感覚が,時に特別な意味を帯びて浮かび上がる.著者は,道元や西田幾多郎といった哲学の巨人たちの人間観を,西洋流の精神医学の限界を超えるための道具として活用し,異常の世界を深く理解する道を示してきた.本書は,現代社会に根強く存在する合理信仰や常識が,実際にはいかに脆弱な基盤に依存しているかを解明し,生きることの本質を問い直すものである.「異常」がどのようにして社会の中で生まれ,異常とされた人々の内面で何が生じるのか――近代社会における「自然は合理的」という虚構が,如何にして多数派からの逆行を認識し,排除する仕組みを作り出しているのか.
さまざまな異常の中でも,現代の社会がことに大きな関心と不安を向けているのは「精神の異常」に対してである.「精神の異常」は,けっしてある個人ひとりの中での,その人ひとりにとっての異常としては出現しない.それはつねに,その人と他の人びとの間の関係の異常として,つまり社会的対人関係の異常として現れてくる
異常が個々の人間の内面でどのように展開し,最終的に正常な人々の日常世界をどのように脅かすのかを追究している.赤ん坊が母親を自己とは異なる他者として認識し,自己を一つの存在として自覚する過程において,「全」と「一」の弁証法的な理解を提示する.このプロセスにおける障害が,精神分裂病(現・統合失調症)として現れる可能性を示唆し,自己の不成立がいかに異常な事態を引き起こすのかについて,洞察を与えている.精神疾患が社会との相互作用の中でどう表れるのかを深く掘り下げることで,「正常」な精神科医としての立場にも関わる問題を反映している.
「全」と「一」の弁証法――赤ん坊が徐々に母親を自己ならざる他人として識別し,いろいろな人物や事物を認知し,それにともなって自分自身をも1個の存在として自覚するようになるにつれて,赤ん坊は「全」としての存在から「一」としての存在に移るようになる.…中略…分裂病とよばれる精神の異常が,このような「一」の不成立,自己が自己であることの不成立にもとづいているのだとすれば,私たちはこのような「異常」な事態がどのようにして生じてきたのかを考えてみなくてはならない
著者が精神異常を扱う際に注目したのは,精神疾患を医学的症状としてではなく,人間の存在の問い直しとして捉える重要性であった.精神障害を持つ人々に対する社会の偏見や誤解を打破する手助けとなり,また精神的な健康がどれほど脆弱で個人の内面と密接に結びついているかを,再認識させるものである.著者の思索には,他者を理解し,共感することの重要性がしばしば表れている.人間の精神を理解するためには,医者や科学者が冷徹に分析するのではなく,患者の目線で世界を見つめ直すことが不可欠と説いた.著者が学生時代に影響を受けた人物の一人に,フランスの哲学者ガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel)がいる.
マルセルは実存主義に立ちながら,他者との関係性を重視した点で著者に強い影響を与えたという.著者が初めて臨床現場で統合失調症の患者と接した際,その患者が語る言葉に込められた象徴性に圧倒され,精神病理学への探究を深める決意をしたというエピソードも知られている.異常は決して個人内部だけの問題ではなく,常に社会的な対人関係の中で異常として顕れる.この視点は,個々の症状にとどまらず,それを取り巻く社会環境や対人関係のダイナミクスを重視する精神医学的アプローチの礎となる.木村敏の業績とその思索は,社会が異常を理解し,そして共に生きるかという深い人間的な問題を考える上で,一定の指針を与え続けるであろう.
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原題: 異常の構造
著者: 木村敏
ISBN: 4065289459
© 2022 講談社
