▼『海も暮れきる』吉村昭

新装版 海も暮れきる (講談社文庫 よ 3-26)

 「咳をしてもひとり」「いれものがない 両手でうける」‥‥自由律の作風で知られる漂泊の俳人・尾崎放哉は帝大を卒業し一流会社の要職にあったが,酒に溺れ職を辞し,美しい妻にも別れを告げ流浪の歳月を重ねた.最晩年,小豆島の土を踏んだ放哉が,ついに死を迎えるまでの激しく揺れる八ヵ月の日々を鮮烈に描く――.

 由律俳句の代表的な俳人尾崎放哉の人生は,破綻と挫折に満ちたものだった.その中で生み出された俳句は,日本文学史上の独自の地位を築き,孤独や無常観が多くの人々の心に響き続けている.本書は,放哉の最晩年の8か月間を中心に,その生涯を再構成し,同時に著者自身の死への深い洞察をも表現している.代表作「咳をしても一人」は,わずか七音の中に,人間存在の根本的な孤独を表現している.この句が秀逸な理由は,孤独が個人的なものを超え,普遍的な感覚として提示されている点にある.人間関係の希薄化や孤独死が社会問題となっている時代において,放哉の句の訴求力はさらに高まっているといえるだろうか.

 本書は,放哉の句作が孤独の吐露ではなく,孤独を受け入れ,それを詩的な形式に昇華する行為であったことを丹念に描き出す.放哉が小豆島で過ごした最晩年の8か月間は,人生の縮図と言える.著者は,放哉が亡くなった41歳を超えるまで執筆を先送りし,苦難の人生に寄り添うように丹念な調査を重ねた.小豆島,鳥取,京都,須磨,福井――放哉が生活した場所を実際に訪れ,現地の人々からの聞き取りを通じて,歴史的資料だけでは掬い取れない放哉の息遣いを追体験した.この努力は,放哉の生活と句作を結びつける鍵となり,読者に実感をもって生き様を伝えることを可能にしている.

 病に侵された放哉は,孤独の中で酒に溺れ,句作に没頭し続けた.この時期に詠まれた句には,「障子あけて置く海も暮れ切る」「春の山のうしろから煙が出だした」など,自然と一体化した視点が特徴的であり,辞世の意識がにじみ出ている.最晩年の8か月間に焦点を当てることで,放哉の放浪や葛藤が最終的にここに集約される様子を克明に描き出している.放哉は,荻原井泉水が主宰した『層雲』で自由律俳句を発表し,短律俳句の可能性を押し広げた.放哉の俳句は,当時の俳句界の主流であった定型律から逸脱し,形式よりも内容の自由さを追求したものであった.

 本書は,放哉の革新性を賛美するのではなく,句作の背後にある苦悩や葛藤,流浪の中の無常観を掘り下げている.著者は,自身が20歳の時に喀血し,死を意識せざるを得なかった体験から,放哉への共感を深めた.放哉の句を通じて,人間存在を見つめ直し,死という普遍的なテーマを小説全体に織り込んだ.このような二重の視点は,作品に深い奥行きを与え,放哉と著者の人生が交錯する場として読者に新たな発見をもたらすものだ.放哉の死後,井泉水が編纂した句集『大空』をはじめとして,多くの資料が後世に受け継がれた.現在,小豆島には尾崎放哉記念館があり,毎年「放哉賞」が設けられている.

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原題: 海も暮れきる

著者: 吉村昭

ISBN: 4062769743

© 2011 講談社