▼『ヴェニスに死す』トーマス・マン

ヴェニスに死す (岩波文庫 赤 434-1)

 旅先のヴェニスで出会った,ギリシャ美を象徴するような端麗無比な姿の美少年.その少年に心奪われた初老の作家アッシェンバッハは,美に知性を眩惑され,遂には死へと突き進んでゆく.神話と比喩に満ちた悪夢のような世界を冷徹な筆致で構築し,永遠と神秘の存在さえ垣間見させるマンの傑作――.

 善美を求めることによって,人間は神にかなう自己の本来の性(フュシス)を探求し,また神に倣わねばならない.プラトン(Plato)中期の対話篇『パイドロス』の一節を想起させられる.透徹した審美眼を磨き,高尚な魂のさらなる向上に全霊をあげる.本書の主題は純然たる美への賛歌であり,それを前にしたならば,人間の知性や理性は跪く.地位と名声を獲得した初老の作家アシェンバッハは,文字を行使する芸術家.爛熟のロマン派を体現するようなアシェンバッハの美の理解は,陶酔のディオニソスと秩序のアポロンの「対立」を頑なに肯定する中にあった.

 ヴェニス当地の高級サロンで見かけた少年タジオは,露に濡れた妖艶なバラの如く,完膚なきまでの美しさをもって空間に佇んでいた.アシェンバッハが雷撃のごとく打たれたのは,タジオは何の努力も代償を払うことなく,“あるがままに”美の貴公子たりえていた真実であった.美や純粋さは「精神の営為」であることを持論としていたアシェンバッハの眼前に姿を現した,ギリシア最盛期の彫刻作品を思わせる神々しさ.それこそが,理性を美の起点とするアシェンバッハの思想を一瞬にして粉砕するのである.

 トーマス・マン(Thomas Mann)の数々の作品に通奏として流れる美は,エロスとプシュケの深淵に彷徨する芸術家の「生」への葛藤という形で現れる.絶望の渦に生まれた歓喜の波.芸術家アシェンバッハは,それまで信じた美学の「滅び」の受容をもたらす究極の美の「発見」を成しえた.生あるものはいつか滅び,いかなる美もやがて衰退を迎える.いかなる言辞を弄しても,美と破滅の両極から人は逃れえないものだが,絶対の真理に直面した人間の従順さが森然と語られている.

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Title: DER TOD IN VENEDIG

Author: Thomas Mann

ISBN: 9784003243411

© 2000 岩波書店